一つの村であった
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上秋津村として独立していた
秋津野と呼ばれている上秋津地区は、弥生時代〜平安時代の出土品が多く、その中でも高尾山の山麓から発見された経筒や和鏡、合子などのは非常に価値が高く、高尾山経塚と名付けられ、日本三大経塚の一つに数えられています。ここ上秋津は、古くから人々の暮らす里であった考えられる。
平安時代には藤原氏の荘園であった。幕末には牟婁群上秋津村で紀州藩附家老安藤氏の領であったが、慶応4年に安藤氏が立藩し田辺藩の領となり、明治4年の廃藩置県の後は田辺県の管轄となり、その後、和歌山県の管轄となる。明治22年の町村制施行により、西牟婁郡上秋津村となり単独で自治体を形成していたが、昭和31年(1956年)に近隣、上芳養村、中芳養村、秋津川村、三栖村、長野村と合併し、西牟婁郡牟婁町上秋津となり、上秋津に町役場がおかれた。その後、昭和39年に牟婁町が田辺市に編入され、田辺市上秋津となり、平成17年、田辺市が隣接の龍神村、大塔村、中辺路町、本宮町との広域合併がなされたが、現在も、田辺市上秋津である。近年、農村(みかん・柑橘・ウメ栽培)でありながら人口が増加している。
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秋津野塾の目的
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1994年9月、秋津野塾は設立された。図表をみていただければわかるように、町内会、上秋津女性の会、老人会、公民館、消防団、小中学校の育友会・PTA、商工会、など27の団体が加盟し
て い る。そして、 11の地区と82班が参画する。つまり地域に あるすべての団体が名前を連ね、タテ・ヨコに統合された組織が秋津野塾なのである。これが最大の特色だ。
秋津野塾は、「地域づくり塾」で ある。環境、健康、 福祉、教育、 防災、農業、 地域社会には、いろいろな 課題がある。 そ うした課題について、住民がみずから考えてひとつひとつ解決し、快適で安全で、健康に安心して暮らせる、 生き生きした地域コ ミュニティを作 っていくことを目的としている。
秋津野塾のもうひとつの特色は、「地区全住民の幅広い合意形成」をはか っていく場である、ということである。上秋津では、塾が結成される以前から、むらづくり活動を展開してきた。何か事業をおこなう、生活課題の解決に取り組む、そういうときは、 そのつど組織をつくって話 し合い、ものごとを決めてきた。
地域における問題は、 年々多様化し、 複雑化する傾向 がある。また、 新しい住民の増加は、それだけいろいろな価値観を有する人とたちが、同じ地域
内に暮らすことになる。多くの住民 の幅広い合意を得ながら、地域づくりを総合的に有機的、機動的に進めていくには、多くの団体の意思が反映する組織が必要だ、と秋津野塾は考えたのである。端的に言えば
、“場当たり的”に陥りやすい、従来型の「決定システム」からの脱却を意味した。
地域が取り組む事業や活動は、秋津野塾の企画委員会で企画・立案され、必要に応じて各団体の代表が出席する全体会議で検討し承認する。それによって物事にすぐに対応できる体制になっている。地域に住む住民が問題を幅広く共有し、住民ひとりひとりが一地区一団体の住民であるととも
に「地域住民」で あるとい う自覚を深める。 各団体が連携しながら、「地域力」を高めていこうとするところに、秋津野塾の特色がある。
地域にかかわるひとたちに共通しているのは、自立し、パートナーとして連携共同するすがたである。秋津野塾の三つ目の特色が、そこにある。地域の問題は、自分たち住民が決めるのだという姿勢である。いたずらに
行政をあてにするのではなく、住民ができることは住民がする。そして、必要に応じて、行政の支援・協力を仰ぐ。多くの住民の総意は、行政を動かす力になる。
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秋津野塾組織体図
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平成26年秋津野塾の構成組織の見直しをはかり、ソーシャルビジネスの農業法人株式会社きてらと農業法人株式会社秋津野も共に秋津野塾の組織に加わった。平成27年地域づくりを経済面からもサーポートしようと立ち上がった一般社団法人『ふるさと未来への挑戦』も組織に加わった。 |
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このページは上秋津公民館と秋津野マルチメディア班で更新作業を行っています。
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