畑文太夫の最期

 徳川時代の末期に上秋津村畑郷に文太夫という陜客とは正義に味方し、火の中水の中もおそれることなく、道のために命をささげる人のことです。
 この頃、秋の収穫期にはお毛見の役人が見廻りに来ました。郡奉公が、稲の出来ぐあいを見て、その年の年貢をきめるわけです。村民たちは総出でこの役人たちを迎え、数日間も接待しなければなりませんでした。このために多くの費用が必要となり、稔りの秋は苦しみの秋ともなったわけです。
 田辺藩主十二世安藤道紀公は、ぜいたくな暮しをして金がなくなり、寛政四年(一七九二)の頃、藩公は借りた金を返さないばかりか、多くの御用金を命じたり、領内の庄屋たちから、たくさんの金を借りたりもしました。
 寛政九年(一七九七)の秋、文太夫は上富田朝来の陜客三兵衛と共に立ち上がり、田辺藩に対して郡奉行を廃止するよう抗議の人々を集めました。安藤道紀公は両名を捕えて刑に処したいと考え、庄屋たちに意見を聞くと、文太夫たちの意見は領内全民の声であると答えたので、寛政十一年(一七九九)五月、遂に郡奉行を廃し、代官により仕事をかねさせることにしました。
 文政六年(1823)には藩主の経済が益々困り、たくさんの銀をおさめるよう命じたりもしました。村々の庄屋の中にも、百姓の作った金で自分の腹をこやす風も流行しはじめ、人々の中にも、それを怨む声が多くなりました。文太夫や三兵衛は起ち上がり、土民一揆を起して抗議する計画を立てました。庄屋たちもこれを恐れ、代官所に二人を召しとるよう訴え出しました。代官は手分けをして、秋津と朝来で二人を捕えました。
 そして遂に文政九年(一八二六)五月二十六日田辺湾口天神崎立戸の鼻において潮込の刑に処せられたいわれています。潮込の刑とは、体をコモ巻きにして海の中に投げ込み、死にいたらしめるという刑でした。
 文太夫には男子九右エ門、女子歌野という二人の子がありましたが、自分のことで子どもにまで罪を負わせるのはかわいそうであると考えました。
 それで九右エ門は富田の草堂寺和尚にたのんで出家をさせました。歌野は上三栖村の清七という家に、棄子として子にやることにしました。九右エ門は後に日置川町三舞の徳清寺の住職になりましたが、天保十一年になくなりました。歌野は後に奥畑野久保与平の嫁となり、子孫を残しました。与平は今の野久保義雄氏の曽祖父にあたります。
 なお明治にたって、文太夫の功績をたたえるため、下畑から高雄山に登る道端に小さな祠を祀っています。文太夫の墓は白草墓地に残っています。
おわり   

以上の文は、中山雲表作「徳川時代田辺藩の虐政と陜客畑文太夫の最期」のあらすじを、中山正夫先生にお願いして、子供向きにわかり易く書きなおして頂いたものです。






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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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