明治の大洪水

 明治二十二年の洪水は、当時在世の人々には実に空前の大惨劇であった。
 洪水の起りは、八月十八日后七時頃から小雨が降り出したのが始まり。翌十九日朝、起きてみると、見るも恐ろしい暗雲が西南方向から北の方向に上りつめ、風これに伴い、雨之に猛る。天候刻々と不穏となり、人皆心痛したが案の定、翌二十日朝より雨強く午後一時頃より想像を絶する豪雨(ばけつをひっくり返した様)となり、夜に入ってますます激しく、人々皆胆をつぶし、どうなることかと心配し、高所に逃げて念仏を唱えるのみ。その内、川の堤防が決壊し、河川氾濫、村の中央部は例えて、琵琶湖の如し、奥畑川、稲屋川、佐向谷川さえ、大岩を転がし、大木を浮かべ、沿線の田畑を総なでとした。
 午後六時頃、川中西側の山崩れ、東側の鷹の巣の足へ突っ張った為(土止めとなる)、川下の水、其の後大いに減んず。(但し、未だ雨降りやまず)
 人々はその理由を知らず、沿岸の者皆安心した。ところが午後九時頃、突如として、怒涛の如く水が押し寄せ、岩内の人皆流される。
 この時一緒に流されたもの数多く、佐向口の川の出合の処にて大渦巻、たいていの者はここで死す。
 又中には磯間迄流されて、助かった者もいたと言う。この状況、筆舌に絶したと云う。
 翌朝に至り、ようやく小雨になり、人々ホッと一息、その朝、鷹尾山々腹大小の崩壊限りなく、昨日の青山一夕にして赤土山、田畑は河原と化せり。
 今、其の被害の概略を示せば、下の如し。
   奥畑 中山雲表さんの記録より。

 和歌山県災害史によれば、明治二十二年八月十八日から、八月十九日にかけて、台風が四国中部を北上した為に、暴風雨となった。田辺町近傍会津川沿流に於いて、被害状況は、
浸水町村       一四
浸水家屋     二〇五五
流亡家屋      五二八
倒潰家屋      一八二
破損家屋      五四七
死亡        三二〇
流落橋梁      一五二
流失船舶       六四
牛馬死亡       二三    とある。

 又、上秋津の古老に当時の被災の模様を聞くと、今の杉ノ原、芝文夫さん方辺りは、小高い丘で通称ヨモン平と言って、何軒かが暮らしていた。この丘すそは広い水田で、用水は今の小屋の谷から引いていた、と言う。明治二十二年の雨は、雲表さんの記録の様に、「四斗だるまをひっくり返した位」とか「バン傘をさすと、ほねだけ残った」と言われる程の豪雨であったそうな。
 この雨でヨモン平(今の大玉すそ)より地すべりがおこり、一帯が土石流におし流された。
 河原の四つ辻より玉井の裏の方で、「大きな渦巻がもうた」との事です。
 河原の増水氾濫によって、河原、平野辺り一帯は、「見渡す限り平で、将棋をたおした様で、立っている物は何一つも無かった」(奇絶峡の真砂さん、当時母がいつも災害の事をよく言っていた言葉)との事です。
 そして岩内あたりでは、醤油屋さんの大きな樽が浮いて流れていたそうで、下秋津の米屋さんの前川岸にあった大きな松の木には、上秋津より流れてくる民家や人がひっかかって止ったらしく、"人止まりの松"と呼ばれていたという。 河原、平野辺りは、今でも五〇cm程ほれば、砂が出るそうです。
 昭和五十六年度工事で川中口橋上流迄県道改修したが、この終点の橋梁工事の時に、当時の食器や瓦が出て来た事で、水田のあで跡も残っていたとの事です。これによって「昔は水田がうんと下で、川も今と位置が違っている事がよくわかった。」
 被災後、英国より土木技師が来て、復旧指導に当った。その結果、遊水地帯を園原の千ノ本さん方前と下秋津豊秋津神社あたりに設けた。当時の復旧工賃は十銭から十二銭位だったと言う。                      (真砂秀次郎さん談)






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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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