旱魃対策日本の農業は、昔より米が中心の作物であった。殿様の給料も年貢米の多少で位置づけられ、一般の人も田の所有の多少で位置づけられていた。その米作に大切なのは水であり、そのもとは雨であった。それで、田植時より順調な雨降りが大事であったが、自然はそうはいかんので、旱魃が来た。それで池がかりは平素より貯水しているので良いが、川がかりはそれが出来ていない。それで半月程も雨が降らないと水不足となり、水田の養水が、一定の人々で水の統制管理(水のあて渡し)をしたり、更に日照りが続くと、川の淵にポンプで汲み上げたりする。又一面では、雨乞い行事が行われた。それは高野山へ参り、燈龍堂の貧女の一燈を分火してもらって帰る。昔は此の旅程は秋津川虎ヶ峯龍神を経て、徒歩で往復したことであり、そして火は、途中宿では不寝番でもち帰ったとのことである。そして帰村後、村内の農民はその火を分けて高雄山の頂上へ登って、一晩枯木等を集めて焚いて雨乞いをしたり、又それぞれの関係場所で材料を焚き、心経を読誦したことであった。それが不思議大底多少の降雨を見たことであった。 又その他水取りの方法として、川底を掘って竹のポンプを作ったり、はとばと言って、二人で一斗桶や缶のようなものを、長い綱で両方で調子に合わして汲み上げる方法もやった覚えがある。 |
1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。
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