共有山の二分口山共有山は、後に村有山とも呼ばれ、現在の愛郷会の山の事を言います。地の肥えた所、やせた所によって二分口山、三分口山と決めていたそうです。栗栖川方面は三分口山で、上秋津は殆ど二分口山だったそうです。 植林条件は、村の人であれば誰でも参加出来たそうです。ただし競争入札を行い、捨金(手付金)を少し入れて、期限三〇年〜五〇年迄となっていて、伐採時に村と植林者と買主、この三者立合の元で承諾して取引を行ったのです。 二分は共有山の方へ、八分は植林者の手取りとなりました。当時人々は、三〇年先、五〇年先の事はわからないから、又、手付金及び苗代、労力がいる為、植林するのは一部の人達(資本家)でした。 一口の面積は、三反から五反位で大きいのはなかったそうです。 其の後、時代の成り行き芳しくなく、植林者の殆どは、大戦前、大木にならない前に伐採したそうです。 共有山の二分口金は、村民一戸当りに、少しお金で配当がなされたそうです。 森山 貞市氏 前田昌次郎氏 談より |
1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。
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