米作り(浸種)昨年秋、よい稲の穂より良く稔った籾を採って種子して置いた籾を、水や塩水で更に悪い籾を浮かして除去し、清水を桶やかめに入れて籾を浸して、五日か七日位置く。又、川の中へ浸す人も居た。時期は、大体五日初旬で八十八夜前後であった。(苗代作り)田を牛で鋤く人や、小さい処は鍬で人力で耕し砕土し、水を入れ、牛で代掻きをして後鍬で整地し、水を除き、短冊型(巾四尺長適当)に苗代を丁寧に作り、数時間前より浸水した籾をざるにあげ、水を切った後それを手で蒔き、草木灰を施し、平鍬で土中にすり込み、終わって水をたたえる。 数日にして目が出て来る。十糎位に伸びると下肥とか金肥を施用、四十日位で田植に適当な苗となる。 (田植準備)農家では耕耘用として、牛や馬を多く飼育しているので、それを利用して田を耕し、水を入れ、代掻きをして田植の出来るように丁寧に均す。此の耕耘のとき、堆肥や金肥(科学・魚・植物性の肥料)を施す基肥と言う。 (田植)前日や早朝より苗取りを行う。強い一握り位を藁で束ねて、運ぶのに便利なようにする。田植を始める前に、三束の苗たばを自宅に持ち帰り、酒とご飯を供えて豊作を祈り、そしてそれを田へ持参、最初に植えたことであった。田植は田植綱があって適当な間隔に印があり、巾は此の形( )の枠が両端にあり、大体三〇糎位、間隔は二〇糎が中心で、片方の手に苗を持ち、片方の手の人指中拇指を二三本宛土中へ突込んで植えるのである。田植は大変激労働であり、時間もかかるので、農家が互いに手伝い合いをするのが多かった。これを手間と言った。 そして苗が活着し十日〜十四・五日経つと一番除草が始まる。雁爪( )で稲株の中を全田打ち返す。又田打車で縦横を七日間隔で打った。そして此の時に金肥を施す人もある。それから機械で次の除草し、更に又元まわしと言って、稲株の元を両手で掻き除草し、その後厩堆肥のある方は株間へ入れる。次に最後のねり込みと言って、盆頃に水を落とし、手で全田草を引いて土中へねり込むのですが、此の頃になると、株間も繁茂し、暑さも激しく言語に絶する猛労働であり、息のとまる思いもした。そして一応管理が終わりますが、苗代から螟虫、マナゴやうんかが発生します。 小さい蛾があり、それを捕殺し又その卵が苗の葉に生みますので、それを補って子供は学校へ、又他の者は役場へ持参すると買い上げてくれた。子供達も斯して米作りの手伝いも出来、盆の小使い銭が出来たのです。まなごは七月頃に株の元について茎を喰い荒らすので、一匹取って広口びんに入れて役場へ持参、買い上げる時があった。うんかは油入れと言って、一杯稲田に水を張り、主に黒油(原油を)一反に二・三?位入れて、油分を水面に張るのを見て、百姓人々が足で水を蹴り、虫を水面におとし駆除したのである。そして九月十日頃に穂が出ると、又、虫の被害が枯穂として出る。それを一本一本切り取って持参すると、買い上げられた。そして二百十日の台風(厄日と言った)も無事済み、十月中旬の小学校の運動会が終わると、稲刈りが始まる。 稲刈りは普通の鎌や鋸鎌にて、手で一株ごと刈り取る。それから人力の稲刈機を経て、今日の動力源となった。そして十株から二十株位で一束にして、杉の間伐材や太い竹で竿として、一週間程田で掛けて乾かす。後センバと言うもので、一握り宛穂をすごき、脱粒したが、後は足踏みの脱穀機が出来、そして手ばち動力脱穀機が出来、更に今日の如き米用刈取り脱穀へと進歩した。そして脱穀した籾は約二〇立位宛莚で、家のかど一面に一日か二日位乾し、唐箕と言うもので悪い籾を除き、もみ箱とか莚だて(莚二枚を合わせ立てて作る)にて庭とか納屋に置き、雨天となれば前夜より夜業で臼引きを行い、米とする土臼で二人か三人で廻して引くと、もみがらがとれる。それを唐箕に掛けて籾がらを除き、更に万石と言う道具で米になったのとまだ籾であるのを分けて、籾は再度臼へ入れて引く。そして四斗(六十キロ)の米俵を作って、土蔵とか押入れへ入れて貯蔵したのです。昭和四年頃には動力の籾摺り機が導入され始めたのです。 明治三十三年生まれの方(森山貞一氏)の話によると、地主より田を預って、殆ど米作り、麦作りをした。 豊作であれば反当り六俵位取れ、年貢として四俵納め、手取り二俵あればよい方だった。 又不作の時は、地主さんと交渉して年貢をまけてもらった。だが、害虫駆除や手間で殆どもうけにならなかった。 小作の持分でよかったのは、屑米が反当り三升位ふいに自分の物になった事である。 |
1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。
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