上秋津のみかん産業

 田辺地方のみかん栽培は意外に古く、みかんの一種の柑子(こうじ)が、一六〇〇年頃には栽培されたとある。その後、九年母(きゅうねんぼ)小みかん、金柑が試作され始めた。
 上秋津の故高木伴七氏は、文久二年(一八六二)、数本の金柑の試植に成功し、明治一〇年(一八七七)杉の原の山林を開拓し、数百本の苗木を植え、金柑栽培が村内にも広がった。
 明治の中頃から、温州・八代(やつしろ)等が栽培され、水田の少ない当地方等が中心地となる。
 明治二二年の水害で、水田を流出した村民が、山を開墾しみかんの栽培をした、と記する文章がみられることから、この水害が、果樹園を拡大させる契機となったのかも知れない。
 昭和期に入ると、世界的不況で、絹糸の価格が大暴落して、農家で盛んだった養蚕が大打撃を受け、桑園は次々と果樹園にかわっていった。この時期の特徴は村をあげての村有林の開墾事業が進められた。
 戦後、農地改革によって、小作地が自作地になったこと等も、みかんの専業農家としての発展へとつながった。
 明治・大正年代に栽培された、小みかん・九年母・八代・柑子などは、いつしか姿を消し、代わって普通温州・三宝・早生温州・夏柑が中心となり、晩柑類が増加した。
 戦後全国的に早生温州が増加して生産過剰となり、当地方では、甘夏柑・はっさく・ポンカン・バレンシャオレンジ等が増加し、晩柑類では、その品種が極めて多く、その整理が今後の問題点となろう。
 現在、紀南地方で生産されるみかん生産の五・六割を、早生温州が占めている。ことに、九月頃、ひと足早い秋の味の「青切りみかん」は、都会の人々の人気を呼んでいる。青切り出荷という紀南みかん販売の特徴も、九州地方の激しい市場進出との販売対応策なのである。
 青切りみかんの販売は、みかん農家の収入を大きく左右することになるのである。
  (百年史田辺「ふるさと発見」参考にしるした)




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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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