むかしの生活服装男の子=着物を着て、手ぬぐいを腰にする。 帽子をかぶる(赤と白色) フロシキ包みは(カバンの代用)、肩から斜め 女の子=着物を着て、たすきをかける。 フロシキは腰に巻く。 冬=袷の着物。はんてん、綿入れ羽織、腰巻き(女)、ネル地、ふんどし(男) 夏=単衣着物、浴衣、腰巻き=うすい布 布はまゆを紡いで(自家用はくずまゆ)織ったり紡績(白い糸)を買って紺屋(染屋)で染めてもらう。一枚の着物で何代にも渡って着た。染め直したり、縫い直したり、最初の着物が、羽織になったり、子供の着物になったり、布の命のある限り使い、いろいろ工夫した。大正十三年頃、簡単服が出来た。 はきもの 普段はわらぞうり(夜なべに作った。) よそゆき=あさぶら(麻裏)表がたたみで裏に麻縄を張ったはきもの=下駄 カバン 昭和の初期の頃、男の子だけが、白い布で作った(家で作った)横カバンを使う様になった。現代の様なランドセルは、昭和六〜七年頃に出来た。 布団 せんべい布団で、掛けカバー等、ないので、一年に一回、夏に洗濯して作り直した。 暖房 火鉢、いろり 洗濯 たらい、せんたく板、石けんがないので、湯をわかしたり、灰汁の上ずみ駅を利用したり、むくろつぶの皮をつぶして使った。洗たくのりは、ふのりや、小麦を引いて、かすを取りのぞき、のりにして打ち板でたたいて布につけた。 洗たくした布は、木綿は張り板へ張り、やわらかい布(ガス地、モス、絹)は、しんしで張る。 洗髪、洗顔 メリケン粉に、ふのりをまぜて使う。 美男かずらの葉、じくをたたいてどろどろにしたもので洗う。顔はぬかで洗う。 夜なべ仕事 昔は、星から星までが一日の仕事の時間(朝は朝星、夜は夜星) 縄ない(新築の御祝には、えつりなわ)一晩に、七ひろ=一〇〇m位、なう。 ぞうり作り、つくろいもの、縫い物、足袋作り。 出産 自宅出産、産婆さんが、取り上げてくれた。 病気 医者にかかる時は、ほとんど死に病いの時だった。 普段は民間薬、漢方薬、置き薬で処置した。 明り 行燈=菜種油を利用した。明治三十五・六年頃まで使った。明るさは、仏様のろうそくの半分ぐらい。あんどんの光をあてに、しば虫が集まって来た。 菜種油から、石油。そしてランプに。(大正四・五年)二分芯・三分芯でランプが大きくなった。 大正七年=川中に水力発電所が出来、各家庭に、六燭光の電気がついた。 その時に唄った電気の唄 「水の力で和歌山へ 針金 まあた(よいしょ!!)(はやし言葉) たよりに火をともす」 女の子の持ち物 毛糸できんちゃくを編んだ。 四季袋=底をあつ紙で張って布で作る。 頭髪 子供・娘は、ちょうちょうに結う。 結婚したら丸まげに結う。 男は、大半が、坊主頭(だいがりとも言う。) 髪の油は、コー油(水油の事)びんづけ油 食事 朝食=五時 四ツ=十時 八ツ=二時 夕食=六時 やせこ=夜食 主食は米二に麦五を混ぜてたいた。 一日に四回から五回食べた。 茶がゆ、漬物、麦めし、野菜、魚、みそ汁。 各自、箱ぜんがあって、自分の食器を収納していた。食器は、使用のたびには洗わなかった。 しょう油、みそは自家製。 四季の行事のごちそうは、「ばらずし」 ごはんやおかずは主に「くど」でたき、かんてき(七輪)もつかった。 おちん と豆のいったの、さつま芋、あられ(寒に作った)しいの実、ニッキの根、山もも、きなぶりみかん おこぼさんの日には、へそまんやけしと(あめ)をかってたべた。 米つき 水車又はからうすでつく(千回から千五百回位)五・六升の米をつくのに一時間程かかった。 麦つき 水を入れてつく。荒づきをし、真づきになったらみがき粉を入れてついた。 これらは主に子供の仕事で、おだちんに五・六銭もらい、お菓子を買って食べるのが楽しみであった。 時 時は鶏(チャボ)によって知った。 一番鳥・・・・・・・・・・・・三時半頃 三番鳥・・・・・・・・・・・・四時半頃 陽足(太陽)によっても時を知ることが出来た。 お天気の予想は、雲行きによってたてた。 火種 火うち石(青い石)で火をおこし、たもと草(着物のたもとの底にたまっている糸くず)につけ、枯れ草等へ火をつけた。いつも火種がある様に、かまどの灰の中に埋めておいた。(この頃はまだマッチはなかった) 福木、正月の四ツ木(一本を四つに切ったかしの木)を大晦日の夜、かまどにいけたおき、元旦の朝はマッチを使うことが出来ないので、それをひき出して、つけ木(ヒノキで、葉書の様に薄く切った板の先へ硫黄をつけたもの)につけて火を起こした。 マッチはありましたが、マッチ一本は米二五粒に価するといって、節約の為、余り使わなかった。 風呂 @横風呂・五右衛門風呂→A金風呂(丸)→B金風呂(四角)という順に出来た。 もらい風呂=五日に一度位わかして、わかした家は、拍子木をたたいて「お風呂おめし。」と言ってまわった。拍子木の数で、今日はどのお風呂か分かった。「今晩は、お風呂ようおたきなさいます。」と言って、もらい風呂に行った。 夏はかまで湯をわかして、行水をした。 子供は、あせもの予防の為に、ソーメンのゆで汁の中へつけた。 又、風呂水はお便所へ入れて、こやしとして使ったので、石けんを使うとこやしになら ないと言って、もらい風呂をしに行った家できらわれた。 温水器 昭和三十二年には、上秋津で始めての太陽熱温水器が杉の原の芝治六さん宅で出来た。 ガラス張りの自家製で、水道がないので、谷水を落差で屋根へ引いた。 現在の温水器のように温度は高くならないが、薪等の量が少なくて済んだ。 アイロン 火のし=しゃくの様なアイロンへ炭火を入れる。 コテ=火の中へつっこんでおく。 熱さを見るのは、コテをほっぺたへ近づけてかげんをみる。(火の加減を見るのは頬のあ たりが、一番わかる) 結婚式(昭和初期) 当日の夕方、仲人さん、おむこさん、荷持ちさんが、弓張り提灯をつけ、つの樽、尾頭 付きの魚を持って、花嫁の家へ迎えに行き、そこで一献かたむけて、それから嫁の身内 の女性がついて(嫁かくし)おむこさんの家へ送って行く、そこで祝宴が夜遅くまで続 いた。 尚、花嫁の荷物は一ヵ月程後、だいたい婚家先でつとまるかどうか、目安がついてから 行った。 三番目の男の子 女の子が二人生まれ、三人目に初めて男児誕生の時は、四つ辻にその子を捨てて、近所で、男の子が丈夫に育っている家の人に頼み、イタミ(穀類などをふるってから、チリをよける道具)で拾ってもらった。その家にあやかって、健康な子に育つ様にと言う親心からだそうだ。名前も拾った親に付けてもらい、戸籍上は、親の付けた名前だが、通称は、その名前を使った。この風習は、ごく最近まで続いていた。 順気休み 農作物にとって順調な気候が大事である。特に雨が降らない事が一番困った。そこで旱魃が続いていた時に雨が降ったりすると、じゅんき休みと言って、まぜごはん等を作って一日中ゆっくり休み雨降りを喜んだ。 しゅったい(出来) 農作業には四季四季の区切りがあった。 例えば、田植、稲刈り、みかんの収穫等、田植機、稲刈機、モノレール等のない時はすべて人の力で農作業をした。その中で田植とか作物の収穫は、短期間に作業を終わる必要がある。しかし乍ら自分の家族だけでは人手が不足する為、他の人に手伝いをしてもらって農繁期を乗り切った。無事、田植とか収穫が済んだ時点で、手伝ってくれた方々へのお礼と家族の慰安、収穫の喜びを表し、ごちそうをたくさん作り、お酒を飲んで、歌も唄い一晩中楽しくすごした。 山菜 上秋津は高雄山のふもと。従って春ともなれば、村のいたる所で山菜をとる事ができる。特に昔は貴重な副菜として食卓にのぼった。 ・ ワラビのアクの取り方 ワラビをボール等に入れ、その上に灰を入れてまぶし、熱湯をひたひたにそそぐ。暫くしてから水洗いし、後は水にさらしておく。(灰のかわりにタンサンでも良い) ・ ゴンパチ(イタドリ) ゴンパチは三〇cm前後のポンと折れる様な若芽を取る。一日おき、しんなりしたら皮をむく。熱湯をわかしながらゴンパチを入れ、色が肌色がかってきた物(この間三〇秒位)から順に水にとり、一日水にさらす。 ・ ふき 熱湯でゆでてから水にさらして皮をむく。 ・ ぜんまい 先のわたの部分を取り除いて、ゆでて、天日に干して、からからに乾いたのを保存しておく。食べる度に水にもどして、やわらかくなってから、煮て食べる。 ・ 竹の子 竹の子は、切り目を入れて、皮つきのまま、又は皮をはいで、米ぬか一つまみを入れて、水からやわらかくなるまでゆでる。そのまま、自然にさました後、水洗いし、流し水であわす。 ・ 切り干し大根 荒い千切り、又は、輪切りにして、日なた干しにする。 ・ ずいき(里芋のじく) 皮をはぎ、親指と人差し指に糸をかけ、太い元の方からすごき切りをし、適度にまとめてつり下げて乾かす。(産後の古い血をおろすのに良いそうだ) ・ さつまいも(いもの花) ゆでてから輪切りし、日なた干しする。 ・ おへぎ もちのつき上がり前に砂糖を入れてつき上げた後、もろぶたに薄くのばし、どてにして薄切りしたものを乾かそうとする。(わらでつるしたりする所もあった)もろぶたでかわかす。 ・ 薬草 昔から医者にかかるのは大変なことで、薬草にたよったのも生活の知恵から。上秋津にもいくつかの薬草が伝えられている。 ニラ 強壮・腰痛・頻尿 ヤマイモ 滋養・強壮 ハコベ 歯ぐきの出血・歯槽膿漏の予防 クチナシ はれもの・打ぼく・腰の痛み ゲンノショウコ 下痢・便秘・冷え性 ユキノシタ 中耳炎・小児のひきつけ・はれもの・むくみ・痔 ウメ 風邪・疲労回復・健康保持 ビワ あせも・せき・胃腸暑気あたり・ねんざ・疲労回復 ニンニク 疲労回復・健胃・整腸 ヘクソカズラ しもやけ ヤブコウジ せき・化膿性のはれもの ヤマモモ 打ち身・口内炎・疥癬 キキョウ たんを伴うせき・化膿性のはれ物 オオバコ せき・むくみ・はれもの ザクロ 口内のただれ クコ 消炎・利尿・高血圧 イタドリ じんま疹・便秘 ヨモギ 喘息・健胃・貧血・下痢・腰痛・腹痛・痔 思い出 着物を着て、袖口も鼻くそで光っていました。 私の知っている事は、一年生の頃には電気もついて十燭位のあかりで、コードを長くして、あちらへ廻しこちらへ廻しして使いました。 父は、草履作り、母はつぎものや足袋つくろいをしました。「よくぬらしてはかな、切れやすい。」と言って、毎晩わらをたたいて、ぞうり作りをしてくれました。 父は、昼は山行き田仕事で、足のとも、手の指に大きなあか切れが出来ていました。 学校へ行くにも、カバンも買ってくれなかったので、フロシキに包んで、帳面の代わりは石板や石筆でした。金の筆入れは、大事に使ったので、六年迄もちました。 習字を書く時には、先生が新聞を四つに折ったものをくれて、真黒くなるまで使いました。最後に反し一枚くれて清書をしました。 先生は、私が一年生の時、四、五人でした。一、二年生はかけ持ちで、校長先生に習いました。 校長先生は羽織を着て、はかまをはいていました。口ひげも生えていました。 勉強は、算術、修身、読み方、書き方と習いました。 三年頃に初めて簡単服を学校で買いました。九十銭か一円位でした。とてもうれしかったです。 母は野菜売りに行く時は、ヨコタかごをかついで行ったものです。棒ちぎで計って売るのでした。帰りには、お菓子を買って来てくれるので、楽しんで待ちました。 食事は、お昼は麦御飯にさんま一匹の三分の一で、一番骨のないとこと言って、尾をくれました。さんまとお味噌のおかずはとてもおいしかった。 杉の原 砂野ちとゑさん 原文そのまま (現在六十五才)談 昔の生活道具の一部 (全て中山三郎氏所蔵) 昔の喫煙道具 手前の包丁の柄には次のように書かれていました 「明治37年7月煙草専売法発布以前ハ戸毎ニ煙草ヲ栽培シ、自家用ハ此ノ包丁ヲ以テ刻ミタリコレハ余ノ幼時父祖ノ使用セルモノナリ 中山雲表」 雲表氏愛用の「矢立て」(今の万年筆のような携帯用の筆記用具)の色々 チョークボックスではありません。箱まくらです |
1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。
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