上秋津の年中行事



一 月
 元 旦
・ 初詣とお飾り
   元旦の朝早く、氏神さん(それぞれの地区、磐上神社、川上神社、市杵神社、中宮神社)へお参りし、去年の感謝と今年の願い事をお祈りする。又家では、年神さん及び神棚等に〆縄と共に縁起の良い品(エビ・こんぶ・だいだいのみかん等外)をお供えしてお祝いし家族で雑煮を食べる。

・ 若水取り
   元旦の朝早く、家長が恵方(暦の上のその年の空)の方向から新年初めての水(若水という)を汲んで来て、年神様の神棚(約四〇cm四方の木枠を作り、天井と底面を張り、側面はそのまま開けておいた立方体の神棚を作り、家の表の間の天井よりつるし、正面を恵方の方向としたもの)に汲んで来た若水と共に御神酒、餅、みかん、串柿等をそれにお供えし、今年一年の家内安全、五穀の豊作等をお祈りした。
   又、正月元旦は、男性が家事を行い女性は休みだった。

 元 旦
・ 四ツ木(世継ぎ)行事
   前年の十二月十三日に取って来たウバベガシの福木を大晦日の夜、カマドにくべて置き、元旦の朝、その火で福木シバを焚き雑煮を煮いてお祝いした。
   この四ツ木は、世継ぎとも言い、先祖代々の幸せを引継ぐ意味を持ち、一年の区切りとして、火にたとえて、前年の火を今年に継ぎ今年も家族全員、幸せな一年である事の願いがある。

・ 新年の挨拶回り
   正月三ヶ日の間に親戚とか隣近所、知人へ新年の挨拶をして回った。
この時も先ず恵方の方向の親戚より回った。又、子供達も元旦の朝、隣り近所へ「おめでとうございます」と言って回り、言った家でみかんと串柿を下さり、今年も健康で、しっかり勉強し遊ぶようにとお祝いをしてくれた。昔はお菓子はもとよりみかんさえ現在のように自由に食べることが出来ない時代であったので、正月にみかんと串柿をもらうのが一番の楽しみであった。
現在の様なお金でのお年玉というものは昭和二十五年頃まではほとんどなかった。
 四 日
     お寺さんが檀家の一軒々々の御仏壇に挨拶をして回った。
     この日はお寺さんの日として一般の人は他家を訪れる事を余りしなかった。

 五 日
・ 出初め式
     消防団の方々により今年初めての消防演習が行われる。
     ある古老が語るに、「わしの若い頃、約五十年位前は手押しの消防ポンプだった。それで上秋津に二ツの手押しポンプがあって、一ツは畑郷(奥畑、境地区)に有って、もう一ツは下の地区(奥畑、堺以外の地区)に有り、岩内の河原で消防演習を行い、畑郷地区と下地区でくす玉割競争をやった。」とその古老に聞いた。

 七 日
・ 七 草(七草がゆ)
     セリ(せり)、ナズナ(ペンペン草)、スズナ(かぶ)、ゴギョウ(母子草)、スズシロ(大根)、ハコベラ(はこべ)、ホトケノザ(さんがい草)以上の春の七草の野菜を入れて、かゆを炊き神様へお供えし、今年も健康である様にと祈りながら家族全員で食べる。

 七 日(陰暦一月七日)
・ 山祀り
   山の神は、山の自然を支配すると共に、そこに生業を営む者の守護神でもあると言われる。当地の山は、ほとんど開墾され、山で生計を立てているのは一部の人となった現在、山祀りと言うのは、ほとんど知らなくなった。
   山の神を祀る恒例の祭日は陰暦の一月七日と十一月七日の二回に定められている様だが、一月七日のお祭り日は、山の神が種を蒔く日だと言われ、それを邪魔しないように山に入らず休んで祀り、十一月七日のお祭りは、山の神が山の木の数を調べる日で、この日、山に入ると木に数え込まれて木になると言われ、山仕事を休み、山仕事に従事しているみんなは山の神を祀り慰安の酒宴を行い、昔はこの日、山主又事業主から酒肴や作業衣、地下タビ等が支給された様だ。
   なお、現在では年二回のお祀りも陰暦の十一月七日のお祭りだけが行われているようだ。上秋津では現在山の神をお祀りしているのは愛郷会とほかにもあるようだが、愛郷会では、会のお世話をしてくれている佐向谷の古谷徳夫さんがこの愛郷会の山に祭壇を作り、サカキを立て、御神酒、洗米、ボタ餅、海の物、山の物を供えて参拝し、仕事の安全と山の繁栄を祈っている。
   山の神は当地方では女性神だと言われ、それもひどい醜女であるがゆえ、女性 がお祭りに参加しない方が良いとも言われ、虎魚(オコゼ)をお供えすればよろこばれると言われるが、醜女である山の神がより醜怪なその海の魚の姿を見て満足を感じるからだとも言われている。
   海の魚に山の神(オコゼの事)と変わった名前がついていると思ったら、この
   様なところから来た伝説名かも知れない。
   又、妻の事を山の神と言うのも山の神が女性神と言われるところから来たかと
   も思われる。なお、山祀りの祭日は以上の日ですが、これから山に入って仕事
   (事業)を始めようとする時にも「山入り」「山初め」と称して、山の神をお祀
   りして仕事の無事を祈願して仕事にかかった様だ。

 十一日
・ 鏡開き
   元旦にお飾りした鏡餅を下げて、その餅でおかゆを炊いてみんなで食べる。

 十五日
・ お飾り焼き
   お正月にお供えした小もちをお飾りと共に川原で焼いて、黒こげになったお餅
   を持って帰り家で分けていただいた。これを食べると、この一年間病気をしな
   いと言った。

     正月の縁起

・ 門 松
   門松を立てるのは、そのゆわれは、門の神をあがむにあり、ともかくも常緑の
   中でも千年と齢を持つ松の寿命にあやかりたいと言うのであろう。
   常世のつらさをしのぎて家の繁栄を祈る心の外ならない。
・ もろむき
   この草「もろむき」と言うので、今も中国地方ではそう呼んでいる。それは夫
   婦相対して長寿円満を祈るのである。
・ ゆずりば
   新葉生して旧葉落ちるのを、親子にたとえ、家代々にゆずりて永久に栄えん事
   を祈る。
・ 橙
   代々に通じて子孫繁栄を祈る。
・ 昆布
 一名広昆布と言うように幅広く喜ぶのである。
・ 鯛
   メデタイのゆわれ
・ かちぐり
   人に勝つと言う心
・ 熊手
   宝をかき集めるの意、酉の市で売る縁起物。熊手の形のものに紙製の小判、お
     かめの面などをつけている。
・ 蝦
   その形のごとく腰のかがむまで長らえて、髪ボウボウと延びるまで生きようと言う意味。
・ ほだはら
   多く俵を積みて、家運をいつまでも延ばそうと言うのである。
・ 串柿
   にこにこと仲むつまじくの意。しぶ柿を長い竹串へ両外に二個ずつ六個ならべ
   て一本に十個刺して干し甘くした食品。
・ 菜
   名も上り。
・ 芋
   くらいも上るように。
・ 鳥
   とるの心で。
・ 数の子
   子孫繁栄
・ かつおぶし
   勝って金銀財宝とり集めて人に勝ちまさるを願う。
・ 田作り
   御健全に通わせる。(ゴマメ)
・ 屠蘇
   災難をはらうのであるが、これには一条の物語がある。
   支那の唐の時代に孫思貌と言うものがおった。草庵を結んで、屠蘇庵と名付け、それに住んでいた。毎年大みそかの夕に山椒、肉桂、桔梗、防風などの薬草を井の中につけ、元旦に井の中から出して酒だるに入れさせた。里人はこれを屠蘇酒と言って飲んだ。これを飲むと病がつかないと言うことだ。
・ 若水
   邪気を払い吉方に詣でてよき事多きを祈るのである。
・ 餅
   餅は歯がためと言って歯の根をかため、歯は年を通じて健固息災で長生きすると言うのである。
・ 煮豆
   まめ息災にと言うこと。
・ 大根
   根が太り身代が大きくなるように。
・ ごぼう
   根は深いもの、家の根も深く動かぬよう。

 十五日
・ 成れ成れ祭り
   一月十五日は正月行事の最終の日であるのでお正月の餅又は鏡餅を小さく切ったものを入れて小豆がゆを炊き、成れ成れの神様にお供えし、家族も朝食に食べた。
   そして朝食後、その小豆がゆを持って畑に行き、みかんの木や柿の木の下で「なれなれ柿の木、なられば切るぞ、なりなります、それではおかゆで祝いましょう」と唱えて木の幹をナタで少し傷をつけ小豆がゆをその切傷にはさんでお供えし、今年の豊作をお祈りした。

 十五日
・ 成人式(成人の日)
   今年満二十歳になる男女が一人前の大人になった事をお祝いする式。
     なおこの成人の日は太平洋戦争後、設定されたものだが、それ以前にも同じような事があった。
     例えば、武家時代=元服(十一才から十六才)明治時代の初め頃から太平洋戦争までの間=徴兵検査(二十才男子)

 十五日
・ お日待さん
   一月十五日、七月一日と年二回有った。
   行事は、お日待さんの掛軸をかけ、庭先に祭壇を作り、手をきれいに洗い、口をすすぎ、みんな一斉に太陽を拝する。そのあとは集まったみんなでお酒を飲みながら親睦をはかった。又ある所では、みんなが寄った機会に農繁期に雇い
   入れる人の日当(賃金)を決めた。なお、昔の人々は、太陽を非常に崇拝したようでお日さんを拝む行事、お日待さん、大神宮さんのお祭りが各地区に必ず有ったようだ。

・ 龍神山、龍神社のお祭り
   陰暦一月十五日と同じく八月十五日の二回、龍神社の本祭りがある。
   海の神様として、田辺から又南部から地元上秋津からはもちろん多勢の人達がお参りし、一日中大変にぎわう。午後に余興としてお餅まきをする。

 十八日
・ 千光寺大般若会
   千光寺に於て、住民の安全、繁栄又それぞれ一族の健勝をお祈りする。
   昔は檀家のほとんどの方がお参りしたのだが、最近は檀家の方々が少なくなり、主にお寺の役員さんが中心で附近二十七ヶ寺のお尚さんが参列して今なお盛大に行われている。

二 月
 三 日
・ 節 分
   翌日より春になるという節分は年越しとも言う。神棚に御飯と大根ナマス、大豆のいったもの、河原で拾って来た小石(鬼の目の代用)少々をお供えし、門口には、割箸にイワシの尾頭付きと目つきしば(ひいらぎの木の葉)をさして
   立て、鬼の入って来るのを防いだ。そして夜、豆まきをする。
   神棚に供えておいた、いり豆を最初、初雷さん(節分以降に初めて鳴る雷)に取って置き、小石と、いり豆で豆まきをする。
   初めに「鬼は外」と言いながら小石を入口の戸(現在はガラス戸がほとんどであるが、昔は木の板張りの戸であった)へぶっつけた。これを三回くり返し、今度はいり豆を両手ですくい一升升に移しながら「福は内」と三回くり返しながら唱える。
   しかし、現在は表戸がほとんどガラス戸である為、小石は使わず、いり豆だけで豆まきをする。
   豆まきの後は、家族が自分の年の数より一ツ多い数の豆を食べる。
   そして又、最初に初雷さんに取っておいた豆を今年になって初めて鳴った時に神棚から下げて家族で分けて食べると、この一年災難に会わないと言われた。

・ 春の亥の子祭り
   陰暦二月の初めての亥の日。
   亥の神様は「作る」神様だと言われている。このお祭りは春と秋の二回有り、春は陰暦二月の初めての亥の日で、亥の神様が此れから作物を作りに出発されると言い、小豆のアンで、アンコロダンゴ(おはぎ)を一年の月の数十二個(閏年には十三個)を作り、又大きなものを一重を作って、それぞれ一升升に入れてお膳を拵え、魚の刺身(おつくり)に柚のみかんを二ツに割り中身を取り出してしぼり、その酢をかけ、残った皮をお椀にして大根ナマスを入れ、御酒と
   共に二つ作り亥の神様と恵比寿様にお供えして豊作を祈った。
     なお、魚を刺身にするのは、これから作りに出ると言う事から「つくり(刺身の事を言う)」にしたと言う。

三 月
・ 春の彼岸
   春秋と二回有る。それぞれ七日間有り、彼岸団子と言いあんころだんごを作り仏壇に供え又お墓参りをし、御先祖の霊をお祭りする。この中心の日を中日と言って、春は春分の日秋は秋分の日で、国民の休日になっている。なお、この中日の日が昼夜の時間が同じとなっている。

・ 社 日
   土地の神様のお祭りです。
   この日は土を動かしてはいけないとされており、これを一年に春と秋二回有り、
   農家は畑を耕す事が出来ないとして休みでした。
   しかしながら、その休みを利用して地区民一戸に一人が出て、その地区内の清
   掃とか道普請(簡単な道路修理)を社会奉仕として行った。

四 月
 三 日
・ 桃の節句(お雛祭り)
   お雛様を飾り、菱餅、お菓子等をお供えし、女の子が丈夫に育つようにとお祭
   りする。なお暦の上では三月三日であるが、当地方は一ヶ月遅れのこの日であ
   る。

 八 日
・ 行者さんのお祭り(久保田地区)
   久保田の辺谷池の上に有る。大峰山、山上さんへ三十三回以上お参りした人達
   で建立したと言う。
   般若心経を唱え余興にお餅まきをする。

 八 日
・ 庚申さんのお祭り(久保田地区)
   お供えものとし、余興にお餅まきをする。

 八 日
・ 不動明王のお祭り(奇絶峡)
   今から百五十年位前、上秋津の木村さんと言う人が虎ヶ峰街道の奇絶峡のとこ
   ろで休息をしている間にねむってしまった。どの位経ったのか、誰かに起こさ
   れた。見ると三人の修業者が立っており、「こんな所で寝ていると風邪をひくか
   ら早く帰れ。」と言われた。そこで修業者の姿をよく見ると三人共高ゲタで、し
   かも歯が一本のゲタをはき、錫杖を持っていた。
   (その当時の虎ヶ峰街道は現在の道より西側の山腹にあった)と見る間に三人
の修業者は、そのゲタをはいたまま山の中に入って行ったと思う間もなく向側のお滝で滝にうたれて修業を始めた。木村さんは大変驚いた。道も無いけわしい切り立った山の中をどの様にして、あのゲタのまま行ったのかと目をパチリッとした。そしてお滝を見ると既に修業者の姿はなかった。
   そこで木村さんは、「なんと不思議な事があるものだ。」と思い、ここにはお不
   動さんがあるに違いないと信じて、お不動さんをお祀りしたのが初めと聞きま
   した。
   それで現在、四月八日に千光寺さんと秋津川の住職さんをお迎えし、大勢の参
   拝者をまじえ、念仏を唱えお祭りし、余興にお餅まきをする。
・ 花祭り(お釈迦さま)
   陰暦四月八日、お釈迦さまの誕生日で、お寺では、甘茶を沸かし、れんげ、たんぽぽ等の草花で飾った花御堂で甘茶を釈迦の立像に注いでお祝いし、お参りした人達も同じく甘茶を注いでお祝いする。
   又それぞれの家では、甘茶を頂いて帰り仏壇にお供えし、家の表に、うの花、あざみ、つつじ、しゃくやく等七色に束ねて、竹の先にくくりつけ高くかかげる。その花は後日、火事の時に火の中に入れると消火のききめがあると言われた。
   又、頂いて来た甘茶で墨をすり習字の練習をすると、字が上手になると言われている。
   もう一つは、虫よけのまじないとして、甘茶で墨をすり「今年卯月八日を吉日とし、神下げ虫を成敗とす"茶"」と書き、その紙を家の柱の下部へさかさまに張っておくとムカデが上がって来ないと言われた。
   なお、岩内のお釈迦さんも同じくこの日甘茶を沸し同じような行事をする。
 "茶"はミスプリントでなく、逆に書くのだそうです。
 十 日
・ 金比羅さんのお祭り(奥畑地区・下畑地区)
   下畑地区、奥畑地区にあるが、その地区の人達が交替でお祭りし、余興にお餅
   まきをする。なお、奥畑地区の金比羅さんについて古老に聞くと、昔、奥畑の
   境地区へお辺路さんが来て、ある家に二晩投宿した。その時、お辺路さんが背
   負って持って来た金比羅さんをここでお祭りしてくれとたのまれた。それでそ
   の家の人が現在の地で、毎年四月十日にお祭りしていたが、その後信者が増え
   て"金比羅講"となり、現在は地区全体でお祭りしている。

五 月
 五 日
・ 端午の節句(男の節句とも言う)
   しょうぶと、かや、とよもぎ、を一緒にワラでゆわえて屋根の上へ上げる。
   こいのぼりを上げ、武者人形を飾り、いびつ餅を作り、お菓子と共にお供えし、お祝いする。男の子の節句で、武者人形の様にたくましく、こいのぼりの様に元気よく育つ事を願い、お祭りする。

・ 種蒔き
   八十八夜を基準とし、その日の前後の一粒万倍日又は大安の吉日の日に種モミを播く。

六 月

・ わさ苗
   田植えをする前日、早苗を三把(一把=三にぎり位)苗床から自宅に持帰り、
   赤飯と御酒を供えて豊作を願った。
   又、田植えの当日、田の畦にサセンボの木の枝を立てた。虫はサセンボの木を
   きらうと言う事から虫よけとして立てた。

・ 田植え休み
     田植えがみんな済んだ時点で、ごちそうを作り、一日ゆっくり休んだ。

・ 田祭り(丑の日)
     陰暦六月の丑の日、田植えが済んで豊作を祈願し、小麦粉で団子を作り、四角
     に切った団子を栗の木の小枝につつみワラでゆわえて田の畦へさしてお祭りし
     た。
     子供の頃、これをすぐ後からついて行き、たばって(もらう)食べるのが大変
     うれしかった。
     又、この日は、田ごしらえで一生懸命働いた牛を川へつれて行き、きれいに洗
     って労をねぎらった。
     その当時、田ごしらえは全て牛の力で行い、農家にはほとんど牛を飼っていた。
     この田祭り行事で、田の畦へ団子を立てる事は、強力な農薬、特にホリドール
     と言う農薬の撒布が始まって以来止まってしまった。

・ 青田御祈祷
     田祭り行事と同じ日に、各地区で今年の豊作を願って般若心経一〇〇〇巻唱え
     る。

・ 雨乞い
     水稲作にとって水は最も大切なものだ。
     その時期の適度の雨がお米の豊作、不作を決める重大事であった。したがって、
     雨の降らない日(日照り)が続くと大変な事です。この為、雨が降ってくれる
     よう、地区代表の方々が、高野山の奥の院から"火"をもらって来て、各地区
     に分けてその火を元に大きく火を焚き、みんなでお祈りした。それが不思議な
     事に大抵、多少の降雨があったと言う。
     なお、上秋津の各所に大小の池がたくさん有るが、これはすべて稲作の為、雨
     の振った時に貯水しておき、必要な時に灌水する事を目的として、昔の人が作
     った池だ。

七 月
 一 日
・ お日待ちさん
     一月十五日の行事と同じく太陽を拝し、お酒を飲み、ごちそうをたべながら世
     間話等を行い親睦をはかった。

 七 日
・ 七夕祭り

八 月
 七 日
・ 七日盆
     お盆が近づくので、御先祖のお墓をきれいに掃除をする。

 十二日
・ お棚作り
     初盆の家では親戚が寄って、お棚を作り初仏をお迎えする準備をする。

 十三日
・ 迎え火
     松の木で根とか幹とか油ののったところ(こえ松)を長さ二○センチ位に切り、
     太さ一・五センチ位に割ったものを焼く十本、ワラ又は針金でゆわえたもの(タ
     イマツ)に火を灯し、庭先高くかかげる。
     なお、一般的には御先祖様を早くお迎えする為にといって、夕方まだ薄明るい
     時間に迎え火をかかげる。

 十四日
・ 供 火
     迎え火と同じく庭先高くタイマツをかかげる。又仏壇にはその時期の作物やお
     菓子をもりたくさんお供えする。
     なお、初盆の家では一〇八体と言って、この夜、高さ一・五メートル位の細い
     竹一〇八本の先にタイマツをさし、それに火を一斉に灯し初仏の霊をなぐさめ
     る。
     その一〇八体のタイマツを立てた始めから終わりまでの距離は大体百メートル
     近く有り、遠くから見ると大変きれいなものだった。
     又、初盆の家では御詠歌などを唱え、夜通し起きていた。そして、この日は近
     所の子供達が初盆の家へ花火を持ち寄って花火大会をし大人達はお棚参り(初
     仏参り)をした。
     その中には、おまいりする時にボロボロの服をワザと着て、誰か解らない様に
     変装した姿(童人法師)でお参りした人も有り、初仏の家の方々は夜通し起き
     ている事から、変装してお参りした人は誰であったのかと色々みんなで話し合
     い夜を明かした。

 十五日
・ 精霊をお送りする日
     上秋津地区は、十五日の朝お送りする習慣になっている。その内、新仏は夜明
     け前、大体午前四時〜五時頃までの間に近くの河原へ、お棚、提灯、お供え物
     等を持って行きお送りし、お棚、提灯等はその河原で焼いてしまった。又旧仏
     も午前中に河原へお送りした。しかし、現在は川をきれいにする運動のため、
     お供えものは持ち帰るようにしている。

 十五日
・ 門めし
     お盆(八月十五日)に近所の子供達が集まって、米を一にぎりずつ近所へもら
     いに回り、各自、アゲ、人参、しいたけ、こんにゃく、醤油等を持ち寄って、
     家の門先で、たいまつのもえ残りを集めて"しょう油ごはん"を炊いて柿の葉
     にのせて食べた。これを食べると夏病みしないと言われた。

 十六日
・ 送り火
     迎え火に対し送り火で霊を送る為、遅くなってから(大体九時頃に)庭先高く
     かかげる。

 十六日
・ 十王堂のお祭り(奥畑地区)
     三栖、長野、上秋津奥畑の境地区の境に六道の辻がある。ここに閻魔大王をお
     祀りしている。お祭りは八月十六日で、昔は青年団の人たちが花火を作り、そ
     の夜地区の人達も楽しみで、大いににぎわった。
     それで、いつの頃からか地区民の信仰厚く毎月十六日を例祭とし地区の方々が
     御詠歌を唱えお祭りしている。
     本祭りの八月十六日にはお餅まきをする。又、この十王堂について愉快な話が
     有る。
     十王堂の本尊は石仏で重さ八十貫(約三〇〇s)有ると言う。
     五〇〜六〇年前頃奥畑地区に"中山角之助さん"と言うものすごい力持ちの人
     が居た。
     ある時、雨乞いの為、本尊を広場に出して祈願をする事となったが、八十貫も
     ある本尊を狭い扉の間からどうして出すかみんなで相談していた時、角之助さ
     んが、やおら立ち上がり、スタスタとお堂へ入り、一人で本尊を右腕一本で脇
     にかかえ、普通重いものを片方に持つと体が反対側にかたむくものだが、その
     門さんは(奥畑地区での愛称)真すぐな姿勢で扉を開け階段をトントントンと
     下りて来てお堂より広場まで運んだと言う。みんなは驚くやら感謝するやらで
     大変だったと言う。その事実を少年の頃見たという古老も居る。

 十八日
・ 観音さんのお祭り(下畑地区)
     毎月十八日下畑地区の方々が例祭を行い御詠歌を唱える。
     本祭りは八月十八日でお祭りの後、お餅まきをする。

 二十四日
・ 地蔵盆(ウラ盆)
     上秋津地区に大体三十ヶ所前後のお地蔵さんが有り、各地区の方々が二十三日
     の宵地蔵に提灯を飾り御詠歌を唱えお祭りし、二十四日の昼間、ほとんどお餅
     まきをする。
     現在、この夜は地区内あげての盆おどり大会を行いにぎわう。
     上秋津の盆おどり大会は田辺市内でも有名である。

八 月

・ 龍神山、龍神社のお祭り
     陰暦の八月十五日、中秋の名月の日、陰暦一月十五日のお祭りと同様の行事を
     する。

・ 中秋の名月(十五夜さん)
     陰暦八月十五日、萩の花、すすきを飾り、メリケン粉で小さなおだんごを作り、
     それをお供えしてお月見をする。
     「月月につき見る月は多けれど月見る月はこの月の月」と詩われ、秋のすみき
     った空に大きな満月かがやく、実にきれいなもの。

九 月

・ 二百十日
     立春から数えて二百十日目、この時期は稲の開花期であるが台風の時期でもあ
     る。この日の前後に必ずと言って良い程台風が襲来した。稲作農家にとっては
     厄日として恐れられていた。

 九 日
・ 栗の節句

 十五日
・ 敬老の日
     私達が今、幸せな生活をしているのは、おじいちゃん、おばあちゃんが、若い
     頃、私達が将来幸せな生活を送る為にと一生懸命努力し、がんばってくれ、今
     の様な幸せな社会を築いてくれた。
     それに対しての感謝を込めて、この日老人会の方々をご招待し、おみやげを作
     り、唄、おどり等を見て頂き、一日を楽しく過ごしてもらう。
     この敬老の日と言うのは、最近決まった祝日ですが、それまでも婦人会の皆様
     方によって前記の様な催しを行っていた。

・ 秋の彼岸
     春の彼岸と同じく御先祖様をお祭りする日で、彼岸のあんころだんごを作り、
     仏壇にお供えし、お墓参りもして御先祖の霊をお祭りする。
     (春の彼岸と同じ)

十 月

・ 秋の亥の子祭り
     陰暦十月の初めての亥の日
     稲の収穫も済み、神様が作物を作り終えて自分の家に帰って来る日で、収穫し
     た新米でお餅(亥の子餅)をつき、菊の花とナマスと尾頭つきの魚を焼魚にし、
     お神酒と共に亥の神様にお供えし、収穫を感謝した。

十一月
 十五日
・ 村祭り
     昭和三十四年頃までは十二月九日が上秋津地区の村祭りでしたが、昭和三十一
     年に六ヶ村が合併し牟婁町として発足した、その時に、新生活運動(無駄な費
     用をはぶく・・・・・・村祭りのたびに付近村の親戚の家へ祭りの御馳走を持って行
     き、持って来てくれた・・・・・・楽しみでもあったが、無駄な費用であった)の一
     環として、又牟婁町一帯は温州みかんの産地でお祭りとみかんの収穫時期が重
     なる事から、牟婁町として合併した機会に、統一のお祭りにしてはどうかとの
     提案有り決定。それ以後十一月十五日となった。
     但し、現在再び元の村祭りの日に戻した地区もある。
     なお、上秋津地区には四ヶ所のお客さんが有る。

磐上神社 氏子(佐向谷)

・ 祭 神
一、 本 殿(薬草の神、疱瘡の神)
    ・大己貴命(オホナムチノミコト)
    ・少彦名命(スクナヒコナノミコト)

一、 鎮守社(お伊勢さん)
    ・天照皇大神(アマテラスオオミカミ)
         鎮守社
         本殿

・ 余 興
     お餅まき、投餅

川上神社 氏子 (岩内、園原、千鉢、杉ノ原、河原、平野)
・ 祭 神
一、 本 殿(秋津を拓いた神)
    ・瀬織津比盗_(セオリツヒメノカミ)
    ・速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)
    ・速秋津比賣神(ハヤアキツヒメノカミ)
一、 末 社
(一) 若宮社(水守の神さん)
・水分命(ミクマリノミコト)
(二) 熊野社(お熊野さん)
        ・熊野牟須美大神(クマノムスミノオオカミ)
      ・速玉之男神(ハヤタマノオノカミ)
      ・家都御子大神(ケツノコノオオカミ)
(三) 八坂社(祇園さん)
        ・速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)
(四) 日吉社(恵比寿さん)
        ・事代主命(コトシロヌシノミコト)
        ・大山咋命(オオヤマクヒノミコト)
(五) 八百萬神遥拝所
(六) 愛宕社(荒神さん)
        ・火産霊神(ホノムスビノカミ)
(七) 大神宮社(お伊勢さん)
・天照大神(アマテラスオオミカミ)
(八) 大将軍社(大国さん)
        ・大国主命(オオクニヌシノミコト)
        ・天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
(九) 龍神社(海の神さん)
        ・上津綿津見神(ウワツワタツミノカミ)
        ・中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)
        ・底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)
(十) 市寸島社(弁天さん)
        ・市寸島賣命(イチギシマヒメノミコト)
(十一)大神宮社(お伊勢さん)
        ・天照大神(アマテラスオオミカミ)
(十二)稲成神社(お稲成さん)
        ・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)

以上の神々をお祀りしているが、この中で(九)の龍神社(海の神様)は龍神山、龍神社の祭神、上津綿津見神、中津綿津見神、底津綿津見神の三柱を高 神、闇 神の二神と信じ、其の末社、愛宕社の祭神、火彦霊命(火の神様)と共に勧請された様だ。
又(七)の大神宮さんは、川上神社に元々お祀りしていた大神宮さんで有り、(十一)の大神宮さんは、その后、園原の大神宮さん、平野の大神宮さんを合祀し境内にお祀りされたと伝え聞いた。

・式 典
・ 渡御式
     最初は下秋津(秋津町)の雲の森神社より渡御式を行っていたが、明治三年頃、
     都合により、自社境内の大将軍社より行ったが、余り近すぎると言う事から、
     明治七年頃から佐向谷の磐上神社より渡御式を行うようになったと言われてお
     り、現在に至っている。

・余 興
・ 獅子舞
     上組(千鉢、杉ノ原、河原)
     下組(岩内、園原、平野)
     と分かれ地区の青年団で獅子舞が行われ、氏子の一軒々々を舞して回り、最終
     にお宮さんで獅子舞を奉納した。
     しかし現在は青年団の人達も少なくなったので、青年団が中心となって有志に
     より盛大に行われている。

川上神社、社殿図
・ 本 殿
・ 末 社
(一)・若宮社(水守の神さん)
(二)・熊野社(お熊野さん)
(三)・八坂社(祇園さん)
(四)・日吉社(恵比寿さん)
(五)・八百萬神遥拝所
(六)愛宕社(荒神さん)
(七)大神宮社(お伊勢さん)
(八)・大将軍社(大国さん)
(九)・龍神社(海の神さん)
(十)市寸島社(弁天さん)
(十一)大神宮社(お伊勢さん)
(十二)稲成神社(お稲成さん)


  磐上神社と川上神社と龍神宮の祭の御わたりの順序について

 一番目・・・金の幣の川上神社 野村家の人が持つ(がんび紙みたいな金色の紙)

 二番目・・・龍神宮の幣(白い半紙で作る)

 三番目・・・磐上神社(白い半紙で作る)

 この行列は、神様方が磐上神社に祭りによばれてきて、今度は川上神社へよばれて行く所である。
 磐上神社の前の橋までは「出発ダイコ」と言って、ダイコをドンドンドンと打ち鳴らし、橋をわたると辻々でドーンと一つ鳴らす。この時のタイコは「いさめダイコ」と言って神様が、まよわないように、神々をいさめながら村の中央の道を行列して行く。
 四番目からの幣をもつ人々は、六十一才の祝とか、厄年の人々とか、村の役員が行列に加わった。
 戦時中は、幣を持つ人が多くて百本ぐらいこしらえたそうだ。近年は行列の人も少なくなって五十本から四十本ぐらいだ。
 幣の持ち方は、左頭に持つ。
 さて、この行列には、川上神社から野村家の人が「むかえの橋」まで、幣をもってむかえに出ている。この野村家のむかえの人は、行列の四番目に並んで、川上神社に入る。本殿の前にくると右側にまわって本殿に入る。
 この行列の通る道をきれいにそうじする事を「御幣道づくり」という。

 磐上神社は昔ここの地主の個人の神様でしたが、立岩神社と一緒におまつりするようになり、佐向谷の氏神様になった。
 昔はこの行列は、青木の鈴松のお地蔵様のそばに、小さな小宮様をおまつりしていたが、それにも行った。土手道をずっと行列しながら行って、小宮様でお神酒をよばれて川上神社に行ったそうだ。

 鈴松のお地蔵様・・・昔地蔵様のそばにたれ下った松の木があった。明治の水害で流されてきた人々がこの松につかまって助かったそうだ。

 市杵島神社 氏子(下畑)

・ 祭 神
一、 本 殿(弁天さん)
    ・市杵島姫命(イチギシマヒメノミコト)
一、 大神宮(お伊勢さん)
    ・天照大神(アマテラスオオミカミ)
      ・余 興
        投 餅

 中宮神社 氏子(久保田、奥畑)

一、 祭 神
     一、本 殿(火の神様)
     ・伊弉冊尊(イザナミノミコト)
     ・軻遇突智命(カクツチノミコト)
     一、若宮神社(お熊野さん)
     ・稚産靈命(ワクスビノミコト)
     ・家都御子大神(ケツミコノオオカミ)
   一、護王神社
     ・和気清麿郷(ワケノキヨマロキョウ)
   一、大神宮(お伊勢さん)
       ・天照大神(アマテラスオオミカミ)
     一、稲成神社(お稲成さん)
       ・倉楯魂命(ウカノミタマノミコト)
 中宮神社、社殿図
・ 本殿
・ 末殿
   ・若宮神社(お熊野さん)
   ・護王神社
   ・大神宮(お伊勢さん)
   ・稲成神社(お稲成さん)

・ 余 興
     素人角力、開始の年月は不明だが、(鎌倉時代「一一六〇年〜一三五八年」以前か?)朝から地区青年団の前座角力が奉納され、午後には地方の素人角士も参加、地区外からの見物人も来て、露天店も有り一日中にぎやかに奉納角力が行われた。
     しかし乍ら、角力によるケガがだんだんと増えて来た為、氏子の一大決心によ
     り、昭和二十五年を最後として中止となった。
     それ以後、余興は投餅と為し現在に至っている。

十一月
 十七日
・ 山祭り
     山の神をお祭りする日で、山を持っている人達は自分の山へ赤飯とお酒をお供
     えし、貴の大きくなる事を祈った。
     又、山で仕事をする人達は、山持主さんから頂いたお酒、ごちそうを食べて一
     日ゆっくり休んだ。

十二月
 十三日
・ 福木正月
     この日に正月の四ツ木行事に使うバベガシの木を山へ取りに行く。
     四ツ木、一本のウバベガシの木を四本の薪にし、そのシバと共(福木)に家に
     持ち帰り、その木へ御神酒と白御飯をお供えしてお祭りする。

 十六日
・ お滝さん(滝谷大明神)(杉ノ原)
     地区の方々が毎年、交代で費用を集め、般若心経を唱えてお祭りし、お餅まき
     をする。

十二月
 十八日
・ 阿彌陀さん(杉ノ原)
     地区の人達が交替でお宿をし、御詠歌を唱えお餅まきをする。

十二月
 二十三日
・ 大神宮さん(だいじごさん)
     各地に大神宮さんをお祭りしていたが、一部では氏神さんへ合祀した所もある
     が、まだまだお祭りしている所が有り、昔は「大神宮講(伊勢講と同じ)」とし
     て各地区で地区民が集まってお祭りし、お酒等を飲んで世間話をして親睦をは
     かり大いににぎわった。
     余興にお餅まきをする。

 二十八日
      )
 三十一日
・ 餅つき
二十八日頃から三十一日までの間にお正月用のお餅をつく。但し二十九日の日は九(苦)がつくと言って、その日はお餅をつく事をきらい余りつかなかった。

 三十一日
・ 四ツ木行事
     一年も終わりで家族みんなで一年を感謝し、夜遅く今年の無事を来年もと言う
     願いを込めて、福木正月に取って来た四ツ木をカマドにくべておく。


以上大体一年間の行事であるが、この行事は現在も数多く継承されている。
しかし、昔、無かったもの(例えば、成人式・敬老の日等も上秋津の年中行事として載せてみた。)
なお、行事の内容については少し違っているもの、又無くなっているものが有るが、ここに記した内容は、およそ昭和二十五年〜三十年頃まで行われていた。その後、簡素化されて現在の様になっている。



: index :

1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

Copyright (C) 1984-2009 Akizuno Multimedia Group All Rights Reserved