又上秋津には何故お地蔵さまがよくまつられているのだろうか。それは、和気清麻呂公の教えのおかげで道徳律が非常に高く、子孫が無病息災で勇猛心を持ち日々家業に精進して、一家の平和を願う人々が多く、昔は嫁ってくると、嫁さんはその家の親と一緒に弁当をもって、田辺近在二十四ヶ所地蔵尊巡りをした。
 家々の玄関には「おさめ箱」があり、その箱には礼場のおふだや、お宮様のおふだが入っていた。家の者はその下をくぐって、無事一日を過ごせるように、又くる人に対しては、福を持って来てもらうように、家の玄関の上においていた。御札箱とも言われる。

   田辺近在二十四ヶ所地蔵尊御詠歌と
   近西国三十三ヶ所の巡礼御詠歌について

 昔、私達の先祖が家のものと一緒か又は近所の人々と一緒に、地蔵尊巡りや、近西国巡りをする日をたのしみに、粗末なものを食べ、汗水をたらし、ナリフリかまわず働き、さてその日が来ると、珍しい米の飯の弁当を腰に結び、霊場を巡って、となりの村や他の村々の農場視察をしては、意見の交換も出来て、自分の唱える御詠歌の声に自らの心の垢も洗われて、精神の修養、心の慰安となったといわれている。
 近西国の礼場を定めた人は、浅野左衛門佐の伯父さんで、田辺海蔵寺の開基の僧天叔に始まると伝えられる。海蔵寺開基は慶長十年(時の将軍徳川秀忠の時代)である。
 お地蔵さんを拝む短いことばは、お地蔵さんの真言である。お地蔵様の真言は
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
「オン」は「帰命、供養」などの意味があり、神聖な語として、インドでは宗教的なことばの初めにおかれてきた。「カ」とはお地蔵様の事である。「カカカ」は「お地蔵さん、お地蔵さん、お地蔵さん。」と一生けん命お地蔵さんを呼ぶのである。「ビサンマエイ」とは、「類いまれな尊いお方」というようなお地蔵さんへの賛歓の気持を表している。「ソワカ」は神聖なことばの最後につけて、その言葉の完成成就を願う気持を表す。
(大法輪より)

 上秋津の地蔵様は、江戸時代のものが大変多いように思われる。お姿は石仏の立像である。石仏の座像を三・四体あった。又大変立派な木像仏もあり、大事におまつりされている。

   田辺近在二十四ヶ所地蔵尊御詠歌

 一番   湊   願王殿
 世を渡る 心の船の寄るべこそ みをつつしてものりの湊に
 二番   新熊野山   松雲院
 よろづ世の 松にちぎりて 紫の雲にかがやく 仏の影
 三番   神子浜   正法院
 生まれ来て はては志保古のみ寺こそ 二世の守るちかいたのもし
 四番   敷浦   金剛院
 海士だにも ちかいにもれぬ 水馴棹さすがに浮ぶ敷の浦波
 五番   撃鼓山   法輪寺
 法のため 火宅を出づる 小車の我が心より帰る元の身
 六番   西の谷   万福寺
 よろづ世も 変らぬ法の さいわいは よむぎが島に建る古寺
 七番   山崎   経塚
 山崎に行きかう人を 松影に 深き誓いは 誰が洩るべき
 八番   皆廻   善入庵
 頼み置く 六つの仏の 六つの道などか 誓いの空しかるべき
 九番   下三栖   岩屋
 いなせとも 言わぬ岩屋の 岩根踏みいでいかならぬ 祈るいとなみ
 十番   三栖   知法寺
 開けいる 心の花の三栖山の 己れと知るや み法なるらん
 十一番   中万呂   平善福寺
 ここいるも 上の平をねがふには 善きさいわいとなりやかわらん
 十三番   万呂   大谷地蔵
 有りがたや 法の教に大谷の 薬の草も求め得にけり
 十四番   上秋津   白草安養寺
 結び置く 白草山の知るべにて 長き暗路の道は迷わじ
 十五番   上秋津   尼ヶ谷地蔵
 尼ヶ谷 清き流れを来てみれば 深くも照らす 月の影かな
 十六番   上秋津   木の下宝蔵寺
 後の世を 願う宝は木の下や み法の蔵に誓い納めん
 十七番   上秋津   千鉢地蔵
 十悪や 五逆積りし千鉢の 罪をも誓いなりけり
 十八番   上秋津   佐向谷講堂
 もろ人の 蒔き置く種は薄くとも 稔る秋津の深き恵みよ
 十九番   秋津   安井光明寺
 迷わじは 秋津の里の月影は おのずからなる法の燈火
 二十番   秋津青木   真福寺
 そのかみの 鐘や鋳ぬらん 神さびて 吹屋平は朽ちぬ名のみぞ
 二十一番   稲成   伊作田石風呂地蔵
 名にしおう 石風呂川に澄む水は 心のあかもみがかれやせん
 二十二番   稲成   下村 辻蔵
 汲みて知る 誓いをここに下村の 守り久しき伊作田の里
 二十三番   西の谷   地蔵寺
 潮後離の 浪に洗へる心こそ 後の世かけて楽しかりけり
 二十四番   目良   光明寺
 昔より 目良の仏の名に寄て 拾って帰る子安貝かな
 夕日をば 磯打つ浪のみがきてや 目良の光も明らき寺

   観音さんについて

 三十三ヶ所観音霊場めぐりで、観音信仰が広まった観音菩薩は三十三に化身して、人それぞれに応じて姿を変え済度されるという。
 十一面観音は奈良時代から信仰されていた。正面に慈悲慈愛の顔、側面左は怒りの相、右は牙をむいた相後方は大笑いの一面である。又慈悲や怒りの顔の相だけでは救いがたい衆生(菩海にただよいもがく魚や獣にも等しい人々)には、獣を捕える網(羂)魚を釣り上げる糸(索)を持った観音様がおられる。すなわち不空 索観音である。
 福田庵のは、千手千眼観自在菩薩といい、千の慈眼千の慈手をもって、人々を救ってくださるありがたい観音様である。

   庚申さんについて

 庚申さんは、大威力があった、病魔病鬼を払い除き、六臂三眼の忿怒相をしている。俗に民間で行われる庚申会の本尊で猿の形相をしている。顔の色が青い青面金剛
 地蔵菩薩はインドから初まって、中国を伝わって日本に入ってきたが、庚申さんは、中国で生まれた信仰であり、それが日本に入って来た。
 上秋津の庚申さんは、奥畑の十王堂と、久保田のさざなみ地蔵様と一緒にまつられているのと、岩内のお釈迦様の横にまつられているのとがある。

   庚申侍について

 庚申の夜、仏家では帝釈天および青面金剛を、神道では猿田彦を祭って、寝ないで徹夜する習俗。その夜眠ると、人身にいるさんしが人の睡りに乗じてその罪を上帝に告げるも、さんしが人の命を短くするともいう。中国の道教の守庚申に由来する禁忌で、平安時代に伝わり、江戸時代に盛んになった。(広辞苑より)

   お不動様について

 菩薩がやさしいお姿であるのに対して、明王は恐ろしい形相をもっている。
 如来の意を奉じ、悪をくだき、修業の道程の色々な誘惑や困難をも打ちくだいてくれる力の使者である。
 インドのヒンズー教の重要な神の一人、シバ神が仏教にそのままとり入れられ、大日如来の使者と考えられるようになった。密告ではさらにこの考えが発展して、不動明王は大日如来の使者というよりも、大日如来そのものの化身とさえ見られる存在である。
 上半身裸体、短い裳を下半身にまとい、焔のような怒髪、目をカッと見すえ、牙をむき出し、武器を持ち、恐ろしい形相でにらみつける。右手に刀剣、左手に羂索を持ち、頭髪を左肩にたらし、岩石の上に坐して火焔光背を背負っている。
 上秋津のお不動さんとして有名なのは、奇絶峡のお不動さんである。四月八日は不動明王のお祭りである。

   お不動さんの真言
不動明王・・・おうまく。さぁまんだぁばぁ。さらなんせんだぁ。まあかろしゃなん。そわたやうんたら。たぁかんまん。




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 次に、上秋津地方に現在残っている色々なお地蔵さんについて調べましてので紹介してみたいと思います。

 @構堂のお地蔵様   木仏   佐向谷

 このお地蔵様は、佐向谷の墓の登り口にあったが、明治初年以来の神社合祀により、今の場所に勘定の地蔵様と一緒に集めて、祀られている。
 構堂の地蔵様は、子安地蔵様で大変子供ずきの地蔵様である。妊婦は腹帯をもって行って、安産をお願いした。
 地蔵尊御詠歌十八番
「もろ人の蒔き置く種は薄くとも、みのる秋津の深きめぐみよ」

 @勘定の鼻のお地蔵様   石仏三体   佐向谷

 構堂の地蔵様と一緒にまつられている、勘定のお地蔵様として有名で、おもしろいお話も残っている。
 昔、田辺近在二十四ヶ所地蔵尊巡りの札所は、勘定の地蔵さんが勘定して定めた所、肝心の自分を札所の番号の中に入れる事をわすれた、と言う話がある。又この勘定のお地蔵さまのぬかったのは、ぬかったのではなく、自分より他を先にするという慈悲の心から、承知でぬかしたと言われている。
 この地蔵様は、中々情のある感情をする地蔵尊である。さて、この御詠歌の出来た年代は、何時頃であるかとは、たしかな事は判らないが、徳川の中世元禄元年前後ではないかと思われる。
 立花国蔵さんや地元の人々の苦労された話。
 五・六十年前、このお地蔵様方を一緒にまつるにあたって、お堂を建てるために、この場所はだらだらの丘であったが、石垣をつみ整地をした。お堂を建てるお金がないので、龍神山のおまつりに田辺でお菓子を買入して、山の上で売ったり、お祭りやお盆に使うのりまきや干ぴょうを佐向谷中売って廻ったりして、何年もかかってお金をためたそうである。そしてやっと寄附をしてもらったりして、今のお堂が建ち、お盆やお彼岸には、色々お供物をして谷の人々がおまつりしている。

 A露の木地蔵と蛇形地蔵   石仏二体   佐向谷

 露の木地蔵様は、佐向谷の龍神山道の登山口にまつられている。昔は今の場所より下の田の辺りにおまつりしていた。明治の頃、そこにはカヤブキの家があり、おじいさんとおばあさんが住んでいた。
 明治二十二年の水害で、家が流されておじいさんとおばあさんはどこかへ変っていかれた。お地蔵様だけが残されたので、立花さんらがおまつりをしていた。場所も今の高い所へ人々の好意で変っている。
 昭和五十五年に野中の蛇形地蔵を、中山権ノ丞様の発案で分身してもらい、露の木地蔵様と一緒におまつりするようになった。それからは、大変おまいりする人が多くなり、ゼンソクの人々が願をかけてなおしてもらっている。田辺方面からもおまいりするそうである。露の木地蔵さまは大変美しい娘さんだ。かわいらしい赤ちゃんを望むお母様方がおまいりしている。今の新しいお堂は、昭和五十六年四月一日に落城した。そのとき、おもち一俵をまいた。
 蛇形地蔵様は、八月のお盆と四月に会式をするので、年に二回宝満寺のお坊様に来ていただくそうである。毎月二十三日は、感情の鼻の地蔵様、二十四日は露の木地蔵様とで、地蔵講の人々が御詠歌をあげている。竹中儀一様は、地蔵様守りを三十二年間してくれている。
 もうじき露の木地蔵様で百年祭をするそうだ。名前の由来は、地蔵様の居られる場所が露の木と言う地名から来ているそうである。
 もう一つの名前の由来 つえのき地蔵様
 この場所の少しかみ側の山肌が少しつえかかっているので、つえのき地蔵様ともいわれる。

 Bげどうの地蔵様   石仏   龍神山

 龍神山にあり、徳川時代の中期頃、享保十年に書かれた書上に、「社より二町程南に当り崎ノ塔と申す小さき石の塔往古御座い由旧跡に御座い。此処にて弘法大師護摩御執行の由申伝へ、岩の間に石仏の地蔵御座い、即ち愛宕と祭り末社の由申伝へぬ」とある。
 又、大正八年上秋津出身の僧野村密浄法印さんが、「護摩壇は人工を加えたもので、たしかに弘法大師の筆跡に成る、南無阿彌陀仏の名号を刻まれてあり、地蔵への降り口に、梵字キリクの如きが刻まれてあり」と言われた。
 その後この場所を使用して、修験道者が護摩を焚き祈祷をした。
 明治以後は、旱ばつにはここで火を焚き、雨乞を祈ったと伝えられる。古来この聖地は、「里人は踏むな汚すな」と言い伝えられている。

 C岩倉地蔵   石仏   岩内

 宝満寺の坂の途中にまつられている。天明ききんや明治大水害での、人々の霊を祭ったそうである。
 去年まで坂の上の地蔵様とと言っていたそうだが、岩倉地蔵さんと、宝満寺のおしょうさんが名前をつけた。
 地蔵様の中には、千鉢から流れて行った地蔵様もあるそうだ。

 D岩内釈迦堂   木仏   岩内

 現在の岩内釈迦堂がある所より少し上の方に興禅寺と言うお寺があったそうだ。今も興禅寺平という地名が残っている。今の釈迦堂の境内に寛文(江戸時代)十一年七月の日付の塔や、元禄七年の頃の石塔が残っていて、寺の名残りあるが、はっきりした年代は解っていない。
 その後、焼けたりしてさびれていったが、昭和十二年三月二十一日、釈迦堂(興禅寺)として、改築落慶された。
 ここに祀られている釈迦本尊は木仏で、昭和二十一年十二月二十一日の南海大地震の時、釈迦像の首と胴体が外れ、仏師の名前と年代が解った。
   奉再興願主田邊庄
    願成寺僧安井
    佛師當國埼住
    稔次郎
      天文七年九月
 これによれば、安併佛師 次郎によって室町時代に再興された事がわかるので、もっと以前から興禅寺はあったのであろう。釈迦堂についてはこれ位しかわからない。
 御詠歌
「鷲の峯ふたたび影の映りきて秋津の露は有明の月」

 I境のお地蔵様   石仏五体   境

 昔、このお地蔵様は、境の旧道の古井さんの下手にまつっていましたが、大正時代に新道をつけるために今の場所(泉長明郎氏の畑)におまつりするようになった。
 このお地蔵様方は、割合に新しいものである。一番古いものは、年代不明の方が一体だが、後は年代もはっきりしている。文化十二年の地蔵様は、昔境には念仏講があったので、その念仏講の人々がおまつりしたものらしい。明治三十年頃の地蔵様は泉長明郎様の姉さんで六才で亡くなったので、お地蔵様を作ってまつった。大正八年のお地蔵様は、田中さんの兄弟の方である。昭和七年のお地蔵様は足の悪い女の人のお地蔵様である。昔は子供が死亡すると、お墓の他に道ばたにお地蔵様をおまつりしたそうである。

 Eこの花地蔵様   石仏   (学校横久保田)

 造られた年代は、天保六年である。
 造られた理由は、天明の大ききんで、この上秋津でも行きだおれの人など、多くの人々が亡くなったのでその人達をまつった。
 地蔵様の三体のうちの一体は、藤木さんの家の地蔵さんで、藤木さんの家で明治の頃赤痢にかかった時、地蔵様をまつったら、治ると言われたので、まつると治ったと言う事である。後の二体は、願いをかけるとどんな事でもかなえてくれるという事で、お参りにくる人々が多いそうだ。特にイボを取ってくれるそうだ。
 ぬすまれるといけないので、地蔵さんをくくっておいた事もあるそうだ。又物を失って出てこない時に、地蔵様をなわでくくり、願をかけておくと、なくした物が出てくるそうだ。今でも時々くくられた地蔵様を見ることがあるそうだ。

 G辺谷の地蔵様   石仏

 行者さん下の方の土手におまつりしている。
 池に入って死んだ人の霊をおまつりしている。又これ以上池で死亡しないようにと祈願もこめられている。ふじん谷の地蔵様と一緒に作られたもののうちの一体である。

 F藤谷のお地蔵様   石仏一体   久保田

 明治二十年頃、池にはまって死亡した人々の霊を供養するために、お地蔵様を三体作った。くじ引きでお地蔵様を決めた。一番くじがヘン谷の地蔵様で、二番がどこかわからない。三番くじが藤谷のお地蔵様だった。一番出来が悪かったが、何でも願い事をよく聞いてくれた。特に足の病気によくきくそうだ。このお地蔵様をまつってからは、藤谷の池では水の事故がおこらななくなった。八月二十四日は近所の人々が集まって、おもちまきをしている。

 藤谷地蔵と辺谷地蔵と同じ時に作ったと言われるもう一体の地蔵様は、池めぐりをしてみたがわからない。

 H白草のお地蔵様   木仏三体 石仏二体   久保田

 白草安養寺は、室町時代に建てられたと言われるが、歴代衣笠城主の信仰特に深い中宮神社(愛宕護山大権現)の別当寺として取り立てられた。
 最初建てられた場所は野久保登司さんの家の辺りで次は白草に変られました。それから峰岡に変ってこられた。(寛政年間までに白草より峰岡の南受けに移転)ここの地蔵様も明治の神社合祀により千光寺に持って行ったが、大正九年十月千光寺より取りもどす。今から五十六年前から、峰岡より久保田の庚申堂に区切っておまつりしている。この木仏のお地蔵様は大変立派で、弘法大師作と口伝されるが、文化的にも重要なものである。三体ならんでおられる。
   田辺近在二十四ヶ所地蔵尊御詠歌 十四番
「結び置く 白草山の知るべにて 長き暗路の道は迷わじ」

 Hサザナミ地蔵様   石仏一体   久保田

 大昔、衣笠山の中腹ぐらいまで、津浪がおしよせ、六ツ川の六谷を波底に沈めて、余波がサザナミとなって岸を洗ったので、遺跡としてその場所にまつられていましたが、戦国時代衣笠城落城後、ここに引き取りまつられた。
 このお地蔵様を、雨ごいをする時、河原に持って行って雨乞いをしたり、品物を取られたり、どこかに置き忘れた時に、荒なわでしばって願をかけると、その品物が出てきたり、イボを取ってくれたり、色々な願い事をよくきいてくれる。

 H庚申さん   石仏   久保田

 地蔵様のそばに区切をつけて庚申さんがまつられている。手が六本、目が三つあり、大変怒ったお顔をした猿神さまである。病魔病鬼を払い除いてくれる。庚申さんは「かのえのさる」の日がおまつり日である。普通サカキをお供えする。
 (注)前記の白草のお地蔵様とサザナミ地蔵様と庚申さんは一つの祠におまつりされている。

 J十王堂   石仏   奥畑

 この地蔵様は奥畑にあり、六つ辻しかすらわらないという事だ。三体あり、えんま地蔵と、見る目かぐ鼻の地蔵様と、道祖神さまがまつられている。元禄十五年作とほられている。
 えんま地蔵様方は境マラ持って来たと言う。昔この辺りに山賊が出てあらしていたので、ここにお地蔵様をおまつりしたそうだ。このお地蔵様方も明治の合祀の時に、千光寺に持って行ってあったが、明治十六年夏の旱魃に、奥畑境の人々が、雨乞いの為に時借りを口実に、戻してもらい庭に据え、若衆一斉に地蔵を洗し雨をふらしてもらったそうだ。
 倶生神様は、常にえんま大王に仕え、善を記録する神と、悪を記録する神様である。この十王堂の倶生神は見る目かぐ鼻の地蔵とも言われている。
 善と悪を記録する神様である。
 見る目かぐ鼻の地蔵
 この地蔵様のお姿は、顔が二つで胴体が一つと変った形をしている。首から上の病気を治してくれるそうだ。
 今の立派なお堂は、野久保嘉市氏が立てなおされたものである。
 お堂の横には庚申さんもまつられている。

 K水口の地蔵様   石仏   奥畑

 願い事をかなえてくれるそうだ。

 L花おり地蔵様   石仏   奥畑

 昔、落合坂にあって、平安の落武者か、熊野の三社まいりをする人が、いきだおれで死んだのを、供養のためおまつりしたらしい。今の所には、野久保嘉市さんの遺言により、家の人がお堂をたてた。
 昔、野久保嘉市さんが子供の頃から学校の行き帰りこのお地蔵様におまいりをしたり、お供物をいただいたりして大きくなられた。新しい県道が上に出来たので、通る回数も少なく、それではお地蔵様もさみしい事だろうと思われて、今の場所に新しいお堂をたてておまつりしている。

 M千光寺寺屋敷跡の石仏について

 千光寺寺屋敷跡に行ってみると、経塚の横に小さな五輪塔や、小さな赤い石の座像のお地蔵様や立像のお地蔵様が数体あった。紅い石の座像の地蔵様は、みるからに古い物だった。残念ながら彫られた年代もわからなくなっていた。
 閼伽の泉は、今は泉もなく、ホースから水が少しずつ流れているだけで、昔の地蔵様三体がまつられていた場所はわからなかった。

 N三本松の地蔵   石仏   下畑

 地蔵様の花筒の水をイボにつけると、イボが取れるそうだ。

 O立江地蔵さん   石仏   下畑

 明治三十四年頃に建てられ、四国の八十八ヶ所巡りのうちにある。阿波国の立江寺の地蔵菩薩を分身してもらってきたものである。諸願一切と病気平癒の祈願に霊験あるといい、足の悪い人が立ち、リュウマチがなおったなどと伝えられ、約三年間くらいは、近在近郷から参詣多くて、附近に茶店、露店出て地蔵守なども出来たが、これを羨んでか、宝満寺でも別の立江地蔵をこしらえた為、双方の評判がおとろえてしまった。今では近所の人々がおまいりをしている。
 P岩倉さん   石仏   下畑

 文政二年(江戸時代)に作られた地蔵様でしたが、明治二十二年の水害に山手の方より流されてきて、その時に建直した。

 Q北向きの地蔵   石仏   下畑

 これは、昔の墓地であったが、地蔵様と呼ばれるようになった。一時期福田庵は尼さんが堂守りをしておられたそうである。今でもこの附近を掘ると墓石が出る。

 R福田庵(観音さん)   木仏   下畑

 大変立派な観音菩薩と、観音様を守る二十八部将とお不動様をおまつりしている。昔より千光寺の奥の院とも言われた。この観音様は先手千眼観音といい、行基の作と口伝される。清麻呂公の愛鷹が矢をくわえている紋所の内にすわられている。又観音二十八部将は、明治の初年頃に色をぬりかえている。これらの観音様方も、明治の合祀の時に千光寺にもって行ったが大正十四年に千光寺よりとりもどしてもらっている。この観音堂には風神と雷神もまつられている。
 近西国三十三番御詠歌   二十四番
「世の中の愚知に溺るる衆生をば 救い給うと方便をして」

 余談 前田のおじいさんの話
 昔、下畑は、大変カミナリさんの多い所だった。
 ある日、カミナリ様が下畑に落ちて腰を痛めて、天に上れなくなった。下畑の人々は気の毒に思い、この観音様にカミナリ様をおまつりしている。

 一月十八日おまつり日で、もち投げもある。

 S閼伽地蔵   石仏   平野

 千光寺の開創の祖和気清麻呂公が、かわいがっていたタカが死んだので、お寺を建立され、この高雄山に埋葬された。村人がそばの泉のほとりに地蔵尊三体を建て、草創者の偉徳を偲んだ。清麻呂公はこの秋津の里の家風を作られた人である。
 この泉の水を閼伽の水と言い、閼伽とは梵語で「仏に献ずる水・・・浄水」との意味である。
 仏にささげるこの泉の水を頂いたならば、人間の内面すべての垢をぬぐい取ると言われる。人々はこの地蔵様にこの和泉の水を頂いては、自分の生活の浄化を地蔵様にお願いした。
 他の一体は、延命地蔵様で、子孫が諸病苦患を消滅して、無病息災を祈念してくれる。もう一体は、不動尊で勇猛心を持って、日々家業に精進して、一家の平和なる繁栄に努力する人材の育成をこの三体に託されたのが、この閼伽地蔵三仏である。
 又五十二年度御堂改修に際して、新たに身代わり地蔵様を開眼して、この世の苦患を身代わりして頂く願所を安置した。十二月十九日おまつりの日である。
 和気清麻呂公について
 岡山県出身の方で、今の警察官みたいな仕事をしていたが、えらくなって総理大臣の位まであがられたが世の中の人々のため「われ天地にはじず」と言われ、姉と子供達を、幼稚園の先生と医者にして、人々を助けた。今でも清麻呂公の関係のある土地には、犯罪人が少ないと言われている。上秋津も清麻呂公の偉徳のおかげで、世の中に敗けないよう、おし流されないよう、人生の流れにおいて弱くなる時に、お地蔵様やお不動様がお守り下さっている。
 追記
 嘉永四年三月、考明天皇の勅命により、護王神社正一位の神号神階を授り、姉広虫と共に京都護王神社にまつられている。菩堤寺は京都神護寺である。

 21稲谷口のお地蔵さん   稲谷

 このお地蔵さんは、三体あり、中央が木彫の立派なお地蔵様である。このお地蔵様は野村正男氏の家のもので、昔は土手のそばに家があり、そこでまつっていたが、大正八年頃、南部町安養寺の僧で上秋津出身の野村さんが、野村晋氏の家のお地蔵さんと一緒に今の場所におまつりするよう進めた。その時お堂を建てるのに、地元の人々が寄附を集めた。その時お堂を建てて残ったお金でもう一体すわったお地蔵様を作り、一緒におまつりするようになった。
 野村家の色のついたすわった地蔵様は、天明四年と彫られていた。これも天明のききんに関係があり、その時に死亡した人をおまつりしたようである。

 22稲谷の地蔵さん   石仏

 明治の大水害時に流れて来たのや、その時に被害にあった人々の供養のために、野村さんがおまつりしている無縁仏である。

 23月見地蔵   石仏

 杉若クリーニング屋さんの前にまつられている。
 この地蔵様は、丸い塔の上のような形をしているが、明示の水害の時に、高雄山千光寺より流れてきたもののようである。七・八年前に横の橋をかける時に、掘り出されて、お地蔵様としておまつりしている。

 24尼が谷地蔵様

 地蔵尊御詠歌十五番
「尼ヶ谷 清き流れを来て見れば、深くも照らす月の影かな」

 24木ノ下地蔵様(木ノ下宝蔵寺)木仏二体 河原

 地蔵尊御詠歌十六番
「後の世を願う宝は木ノ下の 御法の蔵に誓ひ納めん」

 尼が谷地蔵様と木ノ下地蔵様は、明治の合祀で、今は一緒にまつられている。年代不明であるが、大変古いものらしい。今では、イボ取り地蔵として有名である。
 木ノ下地蔵様は、初め、木村佐七氏の家の下にまつられていた。その場所を昔から木ノ下といっている。

 25杉の原地蔵   石仏   杉の原

 鷹の巣城や、お杉さんとも関係があるのではないかと思われているが、川の端でもあるので、たび重なる水害の被害者供養のために、おまつりしているようにも思われる。古老に聞いても、何もわからないと言う。
 墓石を読むと、享保の大ききんの時に死亡した人々をおまつりしている。
 又それより昔、天明三年からはじまった天明の大飢饉は、イナゴで天地が真黒になり、食べ物もなく、主婦は親や子供に残り少ない食べ物を与え、自分は死んでいったといわれている。次の被害者は子供達で、これを哀れんで、残った人達は、地蔵様をおまつりした。

 26明徳庵(阿彌陀仏)   木仏   杉の原

 秀吉の南海征伐で、鷹の巣城落の時、愛洲小太郎長俊が傘で落下戦死、その妻のお杉の方も傘で落下したが、死なず出家して、杉の原に住み阿彌陀堂にこもり夫の供養と家来の無事や、里人の幸福をお祈りしていた。
 この本尊の阿彌陀仏様は、お杉の方が朝な夕なに信心した仏様で、口伝によると弘法大師作と言われるが、お杉さんが自分で作ったとも伝えられる。
 この阿彌陀堂も千光寺に持っていかれたが、お寺ではどうしても立っておらないで、いくらなおしても又こけてしまわれたらしい。元の明徳庵に戻すと、今までこけていた阿彌陀様は、ちゃんとお立ちになられた。
 十年程前に、お堂を修理していると、お杉の方の位牌が出てきました。
 「霊感院杉月妙照大姉」と書かれてあった。そばにお杉の方のお墓もある。
 十二年十八日は、阿彌陀様のおまつりで、おもちまきをしている。

   お杉の方についての別の話

 明徳庵で書いたのとちがう話を、古老から聞いたので、追記します。
 お杉の方は、夫愛洲小太郎長俊と一緒に傘で飛びおりたが、つかまりその時に殺されてしまった。その時からこの場所が杉の原といわれるようになった。
 お杉の方は殺されたのを無念に思い、杉の原の夫婦者の仲をさくように因縁を残された。
 里人はこれではたまりませんので、お堂を建ててお杉さんの霊をとむらい、今でも十二月十八日は阿彌陀様のおまつり日として、餅投げをして里人一体になって、お杉さんをおまつりしている。お杉さんもこれで喜んでくれる事と思う。

 27堂見駅のお地蔵様   奇絶峡

 年代はわからない。
 このお地蔵様の名前の由来は、龍神村や秋津川に行くのに、道がけわしくて、この辺りで休みをとる場所すなわち駅であった。この場所からちょうど禅じょう坊のお堂跡が見えるので、ここを堂の見える駅すなわち堂見駅といわれるようになった。
 お地蔵様もこの場所で死亡した人の霊をおまつりしておられる。そしてこれから旅をする人々の無事をも願ってくれている。

 28奇絶峡のお不動さん

 その一
 奇絶峡の滝は「赤城の滝」と言う。
 ここにおまつりしているお不動さんは、大日大聖不動明王という。
 今から一四〇年ぐらい前、河原の木村佐七さんのおじいさんが天秤棒をかついで、龍神村へ商に行き、その帰り道大変つかれたので、滝の前の道(昔は真砂さんの家の上十三メートルの所に旧道があった)で休んでいると、ついうとうとと寝てしまった。すると三人の行者さんが錫杖をもって、一ツ歯の高下駄をはいて立っていて、「こんな所で寝ないで、早く帰れ。」と言われた。そして道のないがけを滝の方に下りて行ってそのまま滝にうたれて行をし出した。びっくりして、そのままじっと見ていたが、ちょっと目を離したら、その姿はもう消えていた。
 木村さんは、これはお不動様がお姿を変えて現れて注意してくれたのだと思った。
 それからこの滝のそばで、お不動様をおまつりするようになったのである。
 もう一体のお不動さんは、今から七・八年前生馬の平村が過疎でおまつりする人がなかったので、田辺の人が家に持って帰ってまつっていたが、その人も家の事情で、滝のお不動さんと一緒にまつってくれないかと言って来られたので、一緒におまつりしている。このお不動さんは大変古いもので、室町時代の作と言う人もある。名前は、要不動明王といわれる。木仏で一メートルもあり、大変立派な古いものである。

 その二
 中山雲表氏の書かれた書物より引用させてもらったもう一説のお不動さん。
 赤城の滝中央部凹める不動窟があり、そこに不動明王がまつられている。そこの石仏に「木下伝右衛門、安政三辰三月健之」と銘がある。河原の人で今の木村佐七さん家の下辺りが木の下と言われていた事から、木村さんの先祖ではないかと思われる方が、昔よりこの窟より不思議に発する光明を拝せんとして、「其の昔源頼朝に平家討伐の旗上を勧めし京の高雄の文覚上人が那智の滝つぼに荒行中、夢幻に見たりと伝ふる不動明王」の御像を刻んで祭りはじまり、此の不動明王を信仰する人々が献納した小幡が窟イッパイになったと口伝される。むかし此処へ行くのに橋もなく、流れを飛び石づたいに渡った。昭和二年に人々の寄附金により不動堂を創建し、滝見橋をかけた。

 29奇絶峡の麿崖三尊大石仏

 赤城の滝の横の大一枚岩に堂本印象画伯の画いた、三尊の原画を基にして厚肉彫、日本最大の麿崖大石仏が彫刻されている。中央の阿彌陀仏は高さ六・六メートル、左は観世音菩薩、右の勢至菩薩は四・九メートル、彫仏師は内田宗円、中村定夫。
 田辺市と田辺市観光協会と上秋津愛郷会が発願し、日本芸術院会員堂本印象画伯に三尊仏の原画を書いてもらい、同画伯の指導のもと彫仏師内田宗円氏らにより、三ヶ月の月日を費やし、麿崖大石仏が彫刻された。昭和四十一年四月八日に成就した。この日は仏陀生誕の聖日です。「願わくは彌陀三尊、人生生活の光明となると共に永く平和のシンボルとして、世界平和の将来に護念を垂れ給わんことを。合掌」と記されている。
 この大石仏の五周年大法要には、知恩院門主の「大き岩に彌陀三尊を浮き彫りす。千代に伝えてみ法とくなり」の賛仏歌碑除幕式は、昭和四十五年四月六日に現地に知恩院岸門主をむかえて行われた。大石仏縁起に、田辺市の故人橋本豊吉氏は早くより南紀景勝の地に石仏造立の誓願を立て、前記の三者を動かし、この麿崖仏に力を入れられた。

 30花折地蔵   石仏   奇絶峡

 明治二十九年七月に建立されたものである。
 この場所は、花折の座がある。座と言うのは、高い岸壁と言う意味だ。川の流れが渦を巻き、大岩の裾に潜り込み、深さはだれも知らないそうだ。
 このお地蔵様は、この場所で事故にあった人々の霊をおまつりしている。この近くに仏様にお供えする花ビシャコ・アセンボ・コノハナがたくさんはえていたので、花を折って帰って仏様やお地蔵様にお供えしたので、この名前がついたのではないかと思われる。
 追記
 花折地蔵と鎌淵とは場所がちがうように思われる。鎌淵は、秋津川の落合の橋から谷川に行く所にある。ここには「鎌淵龍王大神」をおまつりしている。

 31清水の地蔵様   石仏   千鉢

 この地蔵さんは、元中山一成さんの家の横にあったが、水害で今の所にまつった。赤い石の地蔵様である。井戸の水を守る地蔵さんで、この井戸は浅いが、水がかれなかった。この附近の十戸ばかりの家の飲み水にしていた。井戸の守り地蔵様である。今は皆回りの地蔵様と一緒にまつられている。ぬすまれた事あり。
 御詠歌
「昔より清水はありし地蔵尊 水を清めり千鉢の里」

 31皆回り地蔵尊   石仏   千鉢

 昔この辺りは、何人もの人がなくなったりしたので、さみしい所であった為、地蔵様を祭った。古い形の地蔵様で、すわった姿をしている。
 年代不明。
 御詠歌
「だいはんを 安置します地蔵尊 水を清めし 千鉢の里」

 32千鉢の地蔵さん   石仏四体   千鉢

 この辺りは、深い青い淵で、そばを通る人々のうち、何人もの人や馬が、はまって死んだので、ここにお堂を建て、地蔵様をまつって供養したと伝えられている。今でもこの場所を堂の上と言う。年代不明。
 地蔵尊御詠歌  十七番
「十悪や五逆つもりて 千鉢の罪をも救う 誓いなりけり」
 33堂尻地蔵   石仏   園原

昭和八年の卯の年、千七百七十一年、今から二百十年前に作られた地蔵様で、村はずれの山裾に、堂尻のお地蔵様としてまつられている。名前の由来は、上秋津最後の地蔵様と言う事で、ドン尻の地蔵様として、親しまれている。
 御詠歌
「ありがたや 衆生賽どの地蔵尊 りやくも重き かたき石仏」

 追記
 お年寄りのお話では、大変御利益のある地蔵様で、このお地蔵様に何人もの人が助けてもらったお話が多く聞かれている。

 34行者さん   石像   久保田

 今から九十年ぐらい前、滝本なお造氏ら有志が、大峰山に三十三回おまいりをして行をしたので、その記念に、行者様をたてた。
 神様ですので、清浄な場所として、この高い所におまつりした。
 お姿は衣を着て、高げたをはいておられる。手には錫杖をもっておられたようですが、欠けてしまっている。年に一回おもちまきをする。
 錫杖・・・僧侶・修験者の持つ杖のこと。行をしながら山野を行く時これを振り鳴らすと毒虫などを追いはらう。

 35龍神山のお不動様と行者と水天狗様と荒高地蔵様

 波切不動明王
 このお不動様は大変位の高い方で、神式(鳥居・さかき・ロウソク・神ののりとをあげる)でおまつりしている。(本来不動明王は、ビシャコ・線香・お経をあげておまつりする。朝は仏の位で、昼からは荒神様になる)
 昭和八・九年頃、九州から来た坂上順堂と言うお坊さんが、佐向谷橋にきて、龍神山を見て、「えらい神様をまつったお山だ、どこかに行をする滝がないものか。」と、庄田さんの離れに住んで、滝の川の辺りを、村人(立花さんら)らと、一緒になって山を切り開き、行場を作った。そこにお不動様をおまつりしようとすると、村会の反対に会い、そのお坊さんは大変残念がって、村を出て行った。それから二年後の昭和十一年頃、又村で常会を開き八人の世話人を決めて、お不動様をおまつりした。六畳ほどのお堂を建て、お不動様とお不動様のつきそいさんとして、荒高地蔵尊もおまつりした。(人形の型の方)このお地蔵も大変あらたかなお地蔵様で、村の辻々にたっているお地蔵様とはちがう。
 又行者様(大峰山)は、昭和十六年九月十九日に、青木の富長さん(乳屋)が、石像を寄附してくれて、中芳養のきとう師が来て、不動様のそばにおまつりした。
 昭和二十一年十二月の南海大地震のため、滝の川の石が落ちて、お堂がつぶれたので、村人達は、お不動様や行者様や水天狗様、お地蔵様をいったんは谷口さんの畑の橋のそばに安置したが、砂野久平氏の世話で十九年前の昭和三十九年に今の場所、げとうの谷におまつりした。
 その時に、龍王様も一緒におまつりするようになった。三月二十八日におもちまきがある。普通お不動様の命日は一月十八日であるが、ここの不動様は、初めて滝の川におまつりした日が、昭和十一年の三月二十八日だったので、その日をおまつりの日としている。

水天狗様

龍王様
波切不動明王様
大峰山

荒高地蔵尊
おつき地蔵尊

 35水天狗

 昔、立花のおじいさんが、四十年ぐらい前滝の川のお不動様で行をしていると、体が浮いて、足がトントンとあがって、どこからか声がしてきた。
 「わしは、水天狗じゃ、この松を屋敷にしておる。しっかりやれ。」と、はげましてくれた。
  それから年月がたち、南海地震でこの松もお不動様と一緒に押しつぶされた。おじいさんが困って、水天狗様におうかがいをすると、「わしも不動様と一緒に場所を変わる。」と、言われたので、不動様と一緒にいったんは下に下られて、今から十九年前に、今の場所にまつられるようになった。
  今の新しいお社は、四・五年前田辺の人が東京で先生をしていたが、田辺に帰りたくなったので、立花さんと一緒にお不動様に願をかけ、帰れるようにお願いをした。しばらくして田辺に転勤になったので、そのお礼にと、立花さんと相談をして、今の水天狗のお社をたてた。

  名もないお地蔵さま

 岩内の山本正美さんのお家の敷地内に小さなお地蔵さまがお祀りされている。通りより中に入っている露路にあるので、その存在は近所の人にしか知られていない。しかし、一寸した願い事はかなえてくれるそうだ。
 この地蔵さんは、山本正美さんのお祖父さんの代から祀られているとの事だが、由来も何も皆目解っていない。
 御本体は小さな石に刻まれた地蔵尊で、そばにもう一体、小さな像がある。これは正美さんのお祖父さんが石工であったので(地蔵さんが一体では淋しかろう)とお祖父さん本人か、その弟子が稽古に彫って一緒におまつりしたのであろうと言われている。
 とにかく他には何も刻んでいないので、名号も年号も何一つとして知る手がかりがない。
 一説には、初めおまつりしていた本尊が水害で流されたので、後にこの地蔵さんをおまつりしたもので、前の地蔵さんはどこかに埋っていると言う。このために、石工であったお祖父さんが、新しく石に刻んでおまつりしたのかも知れない。又どこかから流されて来たのを拾っておまつりしたのかも知れない。それとも水害で亡くなった人々を弔うためにまつられたものかも知れないし、いずれにせよ、何のために誰がおまつりしたかは、今となっては知るよしも無い。



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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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