ゆけん谷の主小学校の裏手から、千光寺さんへ登って行く坂道があります。この坂道の右側は、小さな谷になっていて私達は"ゆけん谷(池ン谷)"と呼んでいます。このゆけん谷は、その昔、全体がおおきなため池であったそうです。ちょうど、小学校の給食室の裏手の土手が、池の堤防であったそうです。この池の底には、古くから大きな龍が池の主として住んでいました。 ある年のこと、田植えもすんで、村人達は、ほっと一息をついていました。その年は雨の多い年で、来る日も来る日も雨が降り続き、止むことを知りませんでした。一週間も降り続いたでしょうか。池には濁った水が次第に嵩を増して、今にもあふれ出しそうな状態になってきました。 「これは危ないぞぅー。」と思っている矢先、池の堤防が持ちこたえられなくなって、「ゴオー」という地鳴りと共に崩れていきました。と同時に、泥水と一緒に池の主である龍も流されて行きました。 その頃、学校の周辺は、学校はおろか、農協も民家も何も無く、見渡す限り、田んぼでありました。そして、田んぼまで流された龍は、そこから村中に響き渡る大音響をとどろかせながら、雷雨の中、黒雲を伴って天へと上って行きました。 これを、奥畑の境の岡から見ていた村人達は、「龍が上っていくぞぅー。」と、腰を抜かさんばかりに驚いて見守りました。 これ以来、この田んぼの辺りを"龍上り"と呼ぶようになりました。これが、だんだん訛って、現在では"龍成"と呼ばれています。今の小学校のプールが造られている辺りの田んぼのことです。 また、ゆけん谷の池のほとりには、池の守り神として、弁財天さまが小さな祠におまつりされていました。今もこの辺りは"弁天山"と呼ばれています。千光寺さんを過ぎて、すぐ右側に最近埋めたてた所がありますが、この辺りのことです。 池がなくなったので、弁財天さまは長い間、人々から忘れられた様にひっそりと水のない池のほとりにおわせられ(いらっしゃい)ました。時々、思い出したように二、三人の人がお参りする位でした。しかし、大正末期に、千光寺さんの裏手へ移されて、お祀りするようになったそうです。 この弁財天さまについても余話があります。 この池の底には、古くから大きな龍が池の主として住んでいました。 ある年のこと、田植えもすんで、村人達は、ほっと一息をついていました。その年は雨の多い年で、来る日も来る日も雨が降り続き、止むことを知りませんでした。一週間も降り続いたでしょうか。池には濁った水が次第に嵩を増して、今にもあふれ出しそうな状態になってきました。 「これは危ないぞぅー。」と思っている矢先、池の堤防が持ちこたえられなくなって、「ゴオー」という地鳴りと共に崩れていきました。と同時に、泥水と一緒に池の主である龍も流されて行きました。 その頃、学校の周辺は、学校はおろか、農協も民家も何も無く、見渡す限り、田んぼでありました。そして、田んぼまで流された龍は、そこから村中に響き渡る大音響をとどろかせながら、雷雨の中、黒雲を伴って天へと上って行きました。 これを、奥畑の境の岡から見ていた村人達は、「龍が上っていくぞぅー。」と、腰を抜かさんばかりに驚いて見守りました。 これ以来、この田んぼの辺りを"龍上り"と呼ぶようになりました。これが、だんだん訛って、現在では"龍成"と呼ばれています。今の小学校のプールが造られている辺りの田んぼのことです。 また、ゆけん谷の池のほとりには、池の守り神として、弁財天さまが小さな祠におまつりされていました。今もこの辺りは"弁天山"と呼ばれています。千光寺さんを過ぎて、すぐ右側に最近埋めたてた所がありますが、この辺りのことです。 池がなくなったので、弁財天さまは長い間、人々から忘れられた様にひっそりと水のない池のほとりにおわせられ(いらっしゃい)ました。時々、思い出したように二、三人の人がお参りする位でした。しかし、大正末期に、千光寺さんの裏手へ移されて、お祀りするようになったそうです。 この弁財天さまについても余話があります。 |
1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。
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