愛宕山大権現社の跡

奈良朝の頃、和気清麿呂卿が高雄山千光寺に、建立と同時に、その鎮守の神として、山城の国愛宕山大権現をこの処に勧請し、源平時代に及んで、和泉の国司、和泉左衛門ノ尉平の信兼が、この境内に勧請(熊野権現)して盛んとなり。
 弘安四年衣笠城主、愛洲蔵人ノ允俊秀が、北条時宗の命を奉じて出征し戦功によって阿波の国秋月荘を、賜りて、凱旋後、宿願ほどきのために、高雄、衣笠、両山の中間に、遷宮したるが、今の中宮神社にて、この社地は、いつしか山崩れのために(この下方に「ツエ谷」と権現谷の地名を存す)大いに旧態を損じたりといえども、今なお、住時面影を偲ぶに足る景勝の地たるを失はず、宮の壇として、名も高し。
(雲表記)

(注)「史跡と伝説」その一の稿について、
  この稿は、畔田幸右衛門氏の寄稿を得て編集致しましたが、最後に収録しました「奇絶峡の句碑と歌碑」(中瀬喜陽)「愛宕山大権現社の跡」(中山雲表)の二編については、編集部で追加させていただきました。


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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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