岩倉山宝満寺を語る

 宝満寺はさきに岡畑城について記した際、城主塩屋氏は千光寺の矛先をさけるため、これと対抗する宝満寺を岩倉山に建てて成功した事は既に述べた通りでありますが、この寺の開山として絶照和尚を迎えることになりました。絶照和尚は、由良の興国寺の開山法灯国師の崇拝者であり、法灯派の僧侶でした。国師が由良の興国寺に落ち着いて後、紀南の伝導に巡錫され、各地に足跡を残されましたが、宝満寺もその一寺でありましょう。それ故宝満寺は興国寺を本山と仰いで、代々うけついで参りました。その当時は興国寺の有縁の末寺が四百寺もあったそうです。
 興国寺は鎌倉三台将軍実朝公に影の形にそう様に仕えていた、藤原景倫の建立した寺であります。景倫が実朝の命を受けて、中国に渡ろうとして博多で船を待っている時、鎌倉からの飛脚がとどいて、将軍実朝公のご逝去を知らされました。景倫のその時の驚きとなげきは、察するに余りあると思います。景倫は即時に髪を落として、法衣をまとい、名も願性と改めて、鎌倉へは帰らずその足で高野山に上って、主君実朝公のぼだいを弔うことになりました。これを聞いた母親の尼将軍政子は、「実朝の近習七百人中第一の忠義者である。」とほめられたという事です。
 願性は鎌倉から紀州由良の荘を賜って、この地の地頭となりました。それから七年後、将軍実朝と引き続き亡くなられた、母尼将軍の弔いのために寺を建立いたしました。それを西光寺(後の興国寺)と呼びました。そして願性は拝領した土地の年貢の四分の一を西光寺の維持費に当てることにしました。願性はまた、弟子を鎌倉につかわして、将軍の墓所から、ご分骨をいただき、今建立した西光寺の当の大輪中に半分納め、残りの半分を、実朝が在世中に夢に見たと言う、前世の国に納めようと思って、その機会を待つことに致しました。
 法灯国師は高野で願性と父子の約束を結び、願性からいただいた資金によって、宋に渡りました。その時願性から依頼された、実朝の遺骨を携えて行ったのですが、さて、将軍が夢に見たと言う、温州の雁蕩山は中々見つかりません。致し方なく明州の育王山中に一堂を建て、堂内に等身大の観音像を造り、その腹に遺骨を収めたと云うことです。国師はこの育王山に三年間とどまって供養し、帰国して由良にきました。そして願性のたっての願いを入れて、西方寺の開山に執任いたしました。こののち、後鳥羽法皇のご臨幸を仰ぎ、実朝公と政子の供養をする時、寺号を興国寺と改め、臨済宗法灯派と改宗される事となりました。又後鳥羽法皇葬御の際、この寺を菩提所と定められ、後鳥羽院の尊霊もこの寺に留まることとなりました。それ故興国寺は昔から格式の高い寺とあがめられてきました。
 天正年間豊臣軍の南下により、諸堂悉く焼き払われ、縁記や旧記、宝物を失い、諸堂の額まで灰となって、荒れ果てた寺跡には、虚無僧が庵を結んで、境内で耕作していたと言われます。
 天正十三年豊臣軍の襲来により、宝満寺も焼き払われ、荒野となりましたが、数年後文禄年間住寺と檀家の強い念願により再建された時、興国寺も焼かれて、も早や以前のように本山の面目を保持していける状態ではなく、両寺共、臨済宗の総本山妙心寺に所属するようになりました。
 明治三十年代になって、興国寺と妙心寺が臨済宗の本山争いを起こして、法廷でたたかいましたが、興国寺の敗訴となって、両寺共妙心寺に従っておりましたが、昭和五十年頃となって興国寺は妙心寺を離れて、独立本山となりました。宝満寺はそのまま妙心寺に所属しております。
 宝満寺現在は本堂、庫裏、薬師堂、観音堂、大師堂、地蔵堂、鍾楼がありますが、鍾は昭和十八年戦争に徴発されたため、昭和二十四年十一月再び鋳造されました。その梵鍾の銘の序に、
「岩倉山宝満寺は、昔耕雲和尚が形山先師の志をついで鍾を造ったが、音色があまり良くなかった。そこで天保二年に春嶺和尚が資金をつのって、改鋳した。そのため流麗、優雅な音が、四方に響き渡るようになった。
 昭和十八年東亜戦争が急を告げる頃、戦のため徴発されることとなった。それから山上が急に寂しくなり、堪えられないので、宜観和尚や檀家や信者が再興を計る念願に燃え、日夜思い勤めたところ、御仏のご加護により、巨萬の資財が集まり、その願いが達せられた。
 その鍾は、この世では善心を呼びさます母の声であり、その音色は、あまねく三界にわたる信仰のささやきである。
 衆は皆、心の苦しみを捨てて、この功徳によりかかり、菩提心を起こすであろう。」と。
これによって、梵鍾の経過がよく現されてあります。
 八十八箇所霊場
 江戸末期十一代和尚の時代、和尚が毎夜七晩続けて霊夢を見たので、田辺奉公所へ届け出て、お許しを受け、この霊場を開く事になりました。当時四霊場をもつお寺は稀で、開眼供養には、奉公所の代官その他多勢の参拝者で、一山賑ったと伝えられています。百五十年を経た今日でも遠方からの祈願者が多く、その信者は広いと言うことです。
 宝満寺の御詠歌に、
   いわくらはたなべの不二のみ山なり
    仏はあまた 方 満 寺
  又観音堂は近西国第十七番の札所で、
    我住ぞと誰が岩倉と教えけん
     小野のあきづに 照す月影



: index :

1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

Copyright (C) 1984-2009 Akizuno Multimedia Group All Rights Reserved