人国山と磐上さん

遠い昔のお話です。平安時代の末頃から、熊野三山の信仰がだんだん盛んになって、上皇さんや、法皇さん方が、二百人も三百人ものお伴を引連れて、京都からお詣りするようになりました。あるいての長い旅でありますから、所々休みながら、休む時には必ずお熊野さんを遥拝しながら歩きました。その遥拝所が、王子さんで、大阪からお熊野さんまで、百ほどもあったようです。田辺では元町の出立王子で、きっと泊って、塩ごりをとって身を清め、いよいよ海岸からはなれて、進んできました。秋津の王子さんで遥拝をすませて、秋津野を東へ進んで行く時、北側に高雄山や三星山が見えたでしょうし、秋はもみじで燃えるように美しかった人国山の眺めが、旅のなぐさめになったでしょう。ここを通る毎に宮人たちが、よみ残された歌が、万葉集や古今集にのせられてあります。

   みな月の頃ともみえぬ草葉かな
    秋津の里の道の露けさ     定円法師

 昔の秋津野は露深い、里であったのでしょうか。

   常知らぬ人国山の秋津野の
    杜若をし夢に見しかも      人 麿

   石倉の小野よ秋津に立ちわたる
    雲にしあれや時をし待たむ   読人不知


 この歌に出てくる人国山は、左向谷の人目山を指したものであり、石倉は宝満寺山の岩倉山を指したものと思われます。一目山には昔はハゼの大木が多く、秋の紅葉時は美事で、遠く秋津野から見れば、京都の高雄のもみじも、及ばぬ美しさであったでしょう。又杜若はかきつばたで、八丁田の参道に近く、山裾の湿地に多くて、花の頃はきれいで、旅のなぐさめになった事と思います。

   秋津野の尾花刈りそへ秋萩の
    花をふかさね君が仮いほに    人 麿


 八百年も以前のこの時分には秋津野には、尾花や萩が茂っていたのでしょうか。このように天下の歌人に愛された秋津が私達の古里です。
 人国山は左向谷の左岸、大久保の上にあって、ここで御用のもみじを折って、上皇さんに差し上げたと言う記録もございます。この人国山の麓に、大巳貴命をまつった、立岩明神がありました。大きな岩の陰に小さな祠さんがまつられてあったようです。明治のはじめに、西側の磐上神社に合祀されました。紀伊風土記にはこのお社さんのご神体は大岩だろうと書いてありますが、明治二十二年の大水害の後に、小さく割って会津川の護岸に使ったと言うことです。大巳貴神はその名が示すように、大きな巳の貴い神さまで、龍の異名でないでしょうか、もしそうだとしますと、龍神さまはこの谷の奥から、南を向いて鎮座なさいますが、龍神さまは古屋谷の侍さまが、まつっておられるのでこの土地の人は手出しをすることが出来ません。仕方がないので、ここから北に向かって拝んだ遥拝所であったとも考えられます。大岩は、割ってしまって、なくなりましたが、立岩さんは今静かに磐上さんと一緒に、氏子を見守っておられます。
 磐上神社は高地山の麓で少彦名神をまつってある、薬草の神さまです。昔は病気になった場合は、色々な薬草をとって、せんじて呑んだものです。これを漢方医薬と申します。この漢方薬を受持って、人の病気を治すのがこの神様のお仕事でありましたので、人々が病気にかかった時は、一番先にこのお宮さんにお詣りして、お祈りをしたそうです。特に疱瘡などにかかった時は、治った後に顔にきたない跡がのこらぬよう、一生けん命にお詣りをしたと言うことです。昔はこのお客さんのお祭りは、旧暦の十一月十五日だったので、人々は夜中過ぎに起きて、暗やみの中でおまいりし、其の時白狐を見たなら、必ず幸福が授けられると、参詣者がたくさん集まったと言います。
  川上神社が村社に昇格して、川上さんのお祭りは村全体でするようになりましたが、その時、御渡りの行列が、このお宮さんから出発するようになって、もう百年もつづいています。しかし磐上さんは、明治の終わり頃、政府の方から、神社の合併がやかましくなって、十年ばかり川上神社に移されたことがあったのですが、字民は親を失った子のように、寂しくてたましません。その上神社の合併をやかましく言って、無理にやらせた役人が次々に死んでしまいました。その上村の中でも合併をすすめた立派な家に、後をつぐ子供がなくなったり、折角の家柄が財産を失って衰えたり、色々な事が次々に起こって、氏子の心配は一方ならぬものがありました。そこで、氏子総出で再び磐上さんを元のお屋敷にお迎えして、まつることとなりました。それが大正七年の出来事だったのです。
  時は流れて六十数年間、今また漢方医薬が見直されようとしております。みなさん、これこそ磐上さんにお祀りする少彦名命さまのご神徳ではないでしょうか。



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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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