迫戸の堰堤と護郷の碑

 私がある大雨のあとで、迫戸の砂防から水がごうごうとすさまじい音を立てて、飛び降りているのを見て、びっくりしました。あの大きな岩を、どうしてあんなに高く積んだのだろう。また誰が積んだのだろうと不思議でたまりませんでした。
 春が来て暖かい或る日、私は村の長老さんを訪ねて昔の話を聞かせてもらいました。長老さんはもう八十歳を越えていましょうか、白いおひげをなでながら教えて下さったお話はこうだったのです。
 明治二十二年のことです。前の日から降り続いた雨が風をまじえて、一日中降り続きました。夜になっても中々やみません。むしろだんだんはげしくなって、外はまっ暗く、雨は水をうつす様で、誰もが心配で眠ることが出来ませんでした。
 夜中が過ぎて、あちらこちらで、山崩れがおこり、堤防は切れ切れになって、川の水がどっと押しよせてきて、平地にあった家々は押流され始めました。さあ大変です。まっ暗やみの中で、お母さんは子供を負ぶして、お年寄りの手を引いて、泥水の瀬を渡って、近所の安全な家まで逃げなければなりません。お父さんは牛をひいて、暗やみの中で何度もころびながら、やっと小高い丘までたどりつく有さまでした。
 夜が明けてみれば、またおどろきました。家は傾いてある。物置や牛屋は流されて、ない。お風呂も、畳もたんすも長持ちも、みんな流れて、家の中はがらんとして、砂や石が一ぱいにたまってあるではありませんか。平和な里が、一夜で地獄と変わりました。家が流れなかったのはまだ良い方で、夜中に流れて行く、
屋根の上から「助けてくれ、助けてくれ。」と叫びながら死んでしまった人は数知れず、今もその声が耳に残って、はなれません。
 おじいさんはまたおひげをなでながら、私も古い昔のことで、はっきり覚えていませんが、その時亡くなった方が秋津でも六、七十人はあったように思います。また、流れた家はその四倍ほどあったでしょうか、亡くなった方々のお葬式もそこそこにすませて、みんな水害のあとかたづけと、あすから生きていくため、働かねばなりませんでした。
 おじいさんは言葉をつづけて、さてこの災害は秋津にとっては、未曾有のもので、川や溝の復旧工事は、郷土の人総出で行われました。県や国も大へん力を入れて下さって、紀南で一番大きな工事として残ったのが、あの迫戸の工事でした。東西両方の山の裾を掘り割って、三十米あまり下から大きな岩をならべ、表側と裏側から、堤防のように積上げて二十幾米、どの石を見ても何トンもあるような大きなものばかり。日本人の技師であったら、この時分こんな大工事はよう造らなかったでしょうが、国の方でオーストリヤの土木技師に設計させ、現場の技師に愛知県か、岐阜県の人をつけて下さったので、ロクロを使って永い月日でやっと大工事が出来上がりました。
 それから九十年もたった今、紀州一を誇った堰堤の上手は土砂で埋って、広い平地が出来、飛び散る水のために、大きな岩がいつのまにか、くぼんだ所が出来てきました。私達は先祖が残してくれた、この大工事を見守って、昔のみじめさを繰り返さぬよう、補強工事もし、修繕もして、永く子孫に伝えねばなりません。
 お年寄りから教えられて、やっと私のなぞがとけました。この事があってから、この小さな左向谷の流れに、国民も県民も市民も注目して下さったお陰で、今ではその上手に藤もやの堰堤が出来て、山崩れや水害を防ぐことになりましたが、これだけで安心が出来ないで、昭和四十七年から、たくさんの国費を、県費を注いで、次々と五つの堰堤を造って来ました。
 左向谷川は本流と船ン谷との合流する処に第一号の堰堤を築いたのですが、これがすぐに役に立たなくなったため、最後に第六号堰堤を造りました。高さ八米、長さ六四米もある、一番大きな、一番丈夫なものを造りました。この堰堤でせき留められる土砂は奥地に大地辷りがない限り、百年間は大丈夫だと言われています。このたくさんの工事に使われた費用は六億九千万円にのぼると聞いています。
 皆さん今この堰堤の上に立って、北を眺めるとき、コクゾウのだんがい絶壁がほんの足もとに見え、奥手には三ツ星を眺め、左手にはツエの尾の頂上を見上げて、ちょうど屏風を立てならべたようです。又南を見下ろせば、川の曲がって流れる両岸に珍しく広い平地を残して、清流が音を立てて流れています。この所に、これから皆さんが力を合わせて、桜や、楓を植え、休憩所などを設けると、春や秋は立派な遊園地となって、市民の遊び場となりましょうし、龍善さんへお参りするお客さんにとっても、行き帰りの憩いの場となるでしょう。
 昭和五十六年の四月、総ての工事が終わったため、ここに「護郷之碑」が建てられました。
 皆さん、おおきな自然石に刻み込まれた文字を、どうか一度読んでみて下さい。落成祝賀式の当日は、知事さんや県会議員さんや、市長さんも来てくれ、土地の人々総出で旗を立て、餅をまいて祝いました。これも今から百年もたてば左向谷の奥深く秘められた昔語りの種になるでしょう。



: index :

1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

Copyright (C) 1984-2009 Akizuno Multimedia Group All Rights Reserved