龍善さんの夢

 昔々今から千六百年程前の事でした。弘法大師は真言宗の大本山として、高野山に金剛峯寺を建て終ったので、しばらくゆっくりお熊野さんへお詣りしようと思って、田辺に来られた時、糸田の楠の淵でご自分の姿を写され、これを刻んで一隊の仏像を作り、おまつりするお寺として、高山寺を建てられることになりました。
 弘法さんはお寺を建てられる時、先ず、お寺の氏神さんを迎えて、それから建築にかかる手順をよく踏まれましたので、或る日お寺から東北、鬼門にあたる、龍神山に登られ、荒れはてていたご本殿を修繕し、三体のご本尊を刻んでまつり、又遠く京都の愛宕さんを迎えられて末社とし、山を少し東へ下った下戸の谷の大岩の上で、ごまを焚いて天地の神々に祈りを捧げました。今この大岩の上に約一米四方に堀り着けられた四角の跡が残されてあります。大昔はこのそばに小さな塔がすえられてあったとききますが、今ではその頭に使われたのではないかと思われる石を残して、趾方もなく無くなってしまいました。古い昔のことでありますので、地震などでころがって、谷底深く埋まってあるかも知れません。又この護摩の壇から地蔵さんをまつった所へ、一段おりる所に南無阿彌陀仏と文字が刻まれてあったとも聞くのですが、永い年月の間に文字は消えてなくなり、弘法大師の御作と思われる地蔵さんが風雨にさらされ形がくずれかけて残ってあります。昔からこの護摩の跡は踏むなよごすなと、大切に保存されて来ましたが、長い間に幾人の修験者(お僧さんの修行する方々)がここで護摩を焚いた事でしょう。又干ばつが続いて稲が枯れようとする際、村人は幾度この壇上で雨乞いの松明をもやして祈った事でしょう。
 今も昔も同じように、日本人が一番尊敬する弘法大師の開いた山であり、その霊験の著しい神社であるだけに、この茂った昼でも暗い森の中に(今は余り茂っていませんが、昔は森が深く暗い神秘境であった)天狗が住みついていると言われた。
 昔秋津にきこりがあって、毎日龍神山に上って、薪を切って焚木をこしらえていました。お昼頃になるとこの樵夫の母親が、お弁当を持って来て下さるのが常でありました。ところが不思議な事が度々起こるようになりました。それは運んで来た筈のお弁当が無くなる事でした。樵夫は突作に、あゝこれは天狗のいたずらだと気がついたので、或日樵夫は斧をていねいにといで、龍神山へ上り、お昼近くなると、木陰にかくれて、息を殺して待っていました。母親がお弁当を持って来て、しきりに樵夫の名を呼んだ時、急にあたりが暗くなったかと思うと、肩に羽のある、白いひげをのばした天狗が、母親からお弁当を受取っているので、きこりは矢庭におどり出て、振りあげた斧で天狗の肩先に切りつけた。天狗は苦しいうめき声と共に、片つばさを残して、何処へともなく飛んで行きました。
 この事があってから、樵夫は天狗が怒って復しゅうに来るのでないかと、こわくなって家に引きこもってばかり居ました。
 しばらくして黒雲がわくように飛び、天地が割れるような雷の鳴る夜、戸をこつこつ叩いたかと思うと、隙間から煙のように入って来た、片うでをなくした白衣の老人が、「私をあわれと思うなら、翼を返して下さい。」と泣くように訴えるので、樵夫はあわれと思って、返してやる事にしました。老人は翼を受取るや否や、元の天狗の姿となって、何処へともなく飛んで行ったと言う事です。
 又龍神の森の周囲は昔から共有林であったため、村人の多くが年の暮れになると、焚木を切りに行ったものですが、その中で龍神社を大へん信仰する一老人が言うには、私は焚木切りにも、おまいりにも一年中幾回となく山に上るが、まだ天狗さんには出遇わないけれど、一、二度大きな白蛇にあったことがある。本当にきれいなからだで、目は赤く、長さは二、三米あったように思う。ひょろひょろと岩の間から出て、森の中に消えて行く。これが本当の神のお使いでなかろうかと語る。
 こうごうしい気に打たれ、こうごうしい森の中に一休みする参詣人の中にも、まぼろしのように、夢のように龍の姿を見た人があるかも知れません。
 境内にそびえる馬目の大木は四五人で手をつながなければたりない程のものですが、大将年間の終わり頃、和歌山県の天然記念物に指定されました。高さは二十米足らずのものでしょうが、おそらく県下一の馬目の大樹であると思います。この大樹の陰が昔から白蛇の住家であったかもしれません。
 最後に龍仙画伯と龍善山について、つけ加えておきましょう。龍仙さんは秋津が産んだ大正・昭和にわたった有名な画家ですが、初め、下村観山をしたって、東京美術学校に入りました。この時分下秋津が産んだ墨作りの名人鈴木梅仙が東京に居りましたので、この人の引き合わせで、橋本政邦の門人にもなって、一生けん命勉強している間に、先生が亡くなり、落たんのあげ句、日本画から洋画の方に移り卒業しました。郷里にかえってからこの龍神社にこもって画を書く工夫にこりかたまっている内にちらちらと居眠ったのでしょう。或る夜、「龍仙、龍仙。」と呼ぶ声に目をさましてみれば、それは夢であったが、龍仙氏はこの後自分の雅号の「現秀」を改めて「龍仙」と改めたと伝えられています。
 夢の多い山、伝説の多い山、誇りの高い山、龍神山を皆んなで護って行きませんか。


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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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