弁天さんと十王堂

 一、弁天さん
 弁天さんは本名を市杵島神社と申し、市杵島姫をお祀りしたお社です。古く印度では、仏の国の王様のお妃さんで、弁説才智に富み、民に福徳を施し、音楽にも長じた女神さんとあがめられてきました。又中国では、蚕を飼い、絹糸をつくり、絹織物を織って、朝廷に献上する人々を秦氏と言いますが、弁天さんは泰氏の祖先であるとも申します。
 このお社は古くから、稲屋川の上流下畑に鎮座され、秋津殿(愛洲光隆)の十世の孫愛洲資俊が、南朝に味方して、鷹の巣城を築くとき、当社のご霊徳により成功した事から、愛洲氏は自家の氏神さまとして尊崇したお宮であります。
 天正十三年豊臣氏の南海征伐により、鷹の巣は落城し、愛洲氏が秋津を去ってから、間もなく口熊野の領主杉若氏が、弁天さんを頼って、この地に定住することとなりました。
 杉若越後守は南海征伐の功績により、紀南の地を与えられて、八王子(上野山、第三小学校附近)に城を築く時、日高の小松原にあった九品寺をこぼって来て、城の大広間とし、田辺の闘奚隹神社の神門を取り上げて、城の門といたしました。又文禄元年朝鮮征伐に出発する時、伊作田の稲荷神社に祀願のため、家来黒板をつかわした際、神主さんの止めるのも聞かず、むりに扉を開かせました。数々の神に対するご無礼がたたったものか、杉若は目が見えなくなってしまいました。
 慶長五年、関ガ原の合戦が始まった際、杉若氏は西軍に味方し、新宮の城主堀内氏は東軍に味方して対立しました。その時杉若氏は兵を率いて、新宮を攻め、城主を伊勢に追い払って武威を誇っている間に、紀州は浅野幸長の所領となり、八王寺(上野山)城は浅野一党の物となりました。田辺に凱せんした杉若氏は城はなく、行く所はなく、田辺で部隊を解散して、そっと妻子を伴って、弁天さんのお屋敷に逃げ込みました。
 杉若氏は過ぎし日の振舞いを恥じ、荒れ果てた、当社を修ぜんし、「子孫代々弁天社をおろそかにする者があった場合は子孫が絶えても苦しくありません。」と神前でお誓い申し上げ、時分は髪をおろして仏門に入り、子息主殿頭は百姓となり、子々孫々当社を氏神さんとあがめてきました。
 杉若氏がこの地に住み付いて、神社に力をつくした頃が、この神社の最も栄えた時代であって、社地は広く、南西北の三面をめぐる大きな池があって、神社の森が半島のように突出し、巨木の枝が池に垂れ、たくさんな灯籠の火が水にうつって、夜はまばゆい様な美観であったと云う事です。その上祭の宵宮には弁天さんのお姿が水にうつって、そのお姿を一目拝みたいと遠くの方からも参詣者が多く、賑やかであったと申します。
 弁天神社はその後山崩れがあり、池は壊されて水は無くなり、今もお社の後方に陥没のあとが残ってあると言うことです。


二、十王堂
 奥畑境地区から上三栖の「そら」に越える山上の辻を、六道の辻とも申しますが、ここに閻魔地蔵をまつった十王堂があります。いつの世に誰がこの地にまつったのか、その由来はわかりませんが、そもそも十王堂とは、仏教で云う、人が死んで、地獄、極楽に行く道の辻にあって、閻魔大王が、この者は、極楽行き、この者は地獄行きと、生前の功罪によって裁く所だそうです。
 今この十王堂に祀ってあるのは、閻魔大王と、その従神の倶生神です。閻魔大王は人間がこの世に出来て最初に死んで、あの世の神となった方で、あの世を支配する威大な権限を持っております。大王は又地蔵ぼさつの身がわりであるとも云われています。次に具生神は元来印度の神様で、人は誰でも生まれた時から、その両肩にこの神様がとまってあって、その行いの善悪を記録する神であると云う事です。また倶生神に男神と女神があって、男神は左で善を記録し、女神は右で悪を記録し、何時も閻魔大王の側についていると言われます。ちょうど昔であったら検非違使の役人で、今なら検察庁の書記官でしょうか。
 閻魔大王のことを「見る目、嗅ぐ鼻地蔵。」とも申します。「見る目、嗅ぐ鼻」とは閻魔庁の亡くなった人間の善悪を、見わけ、嗅ぎ分けるから、こういったのでしょうか。
 最近道徳教育が徹底しないのか、家庭教育が低下したのか判りませんが、非行少年がふえて、悩んでおられる親や、先生方よ、是非共そんな子供を連れて、一度十王堂へお詣り下さい。きとご利益あらたかで、正常にもどるのではないかと思います。



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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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