岡畑城について

 今から八百五十年程前、平安時代の終りに近づいた頃、都では平家の勢いが強く、「平家の一門でなければ、人でない。」と我がままをしていた時代がありました。奥州の藤原氏は都へ上っても、平家の人々に見さげられるだけだから、この間に熊野三山参りをして来ようと、藤原秀衡夫妻が熊野へ来ました。そのあとを追って、弟の秀勝夫妻が二人の子供をつれて、又熊野入りをしたのですが、労れたものか、路をまちがえたものか、稲荷の岩山へ来ました。この洞穴で過しているうち、中芳養の林に住んでいた、楠本陸奥進が訪ねて来て、「こんな洞窟での生活は何かと不自由でしょうから、私の宅の方へお来し下さい。」と云って、秀勝親子を引取って生活を共にしていました。秀勝の子長太郎は武芸が上手であり、女の子モヤ江は習字が上手であったので、隣家の子供達が寄って来て、武芸や習字を習っていたと言うことです。
 この時鎌倉から秀勝にお達しがあって、秀勝は喜び勇んで、奥畑の山上に城を築くことになりました。これが岡畑城で、秀勝は上秋津、下秋津、三栖、万呂の初代の地頭となったのです。この時から秀勝は塩屋三郎藤原行久と名を改めました。今この城跡を見れば、空掘をめぐらした跡があり、上部は平らかで、水は城から少し下がれば小さい谷があって、かなりな城であったと思われます。
 行久は妻子を呼んで、城内生活を始め、四か村の年貢を取立てて、鎌倉に送ったのですが、モヤ江は芳養に残って、後楠本家に嫁入りし、男の子は成人して塩屋長左衛門尉藤原行時と名のって、戦争に参加して不幸があったと聴いています。
 塩屋行久が地頭職につゞけて行くに付いて、一番頭をなやましたのは、高雄の千光寺で、ここには常時僧兵がたくさん居て、地頭の言う事はきかず、勝手に振舞ってばかりいます。しかしこれを治めるのには、こちらは兵力が足りません。只手を組んで見ているより方法がありませんでした。
 その時思いついたのは、千光寺に対抗する寺を建てて、寺は寺同士でにらみ合わせて置けば、矛先をこちらに向けてくる事はあるまいと、私財をつぎ込んで、石倉山に宝満寺を造りました。そして地元の奥畑は勿論、上秋津中の土地をたくさん持つ地主を誘って、宝満寺の檀家として、何時迄も寺を支えてもらう事にしました。計画がうまく当ったのか、千光寺僧兵の攻撃はどうやらまぬがれたようでした。
 しかし困ったことがまた起こりました。それは衣笠城が出来上がって、源氏の流れを引く、愛洲八郎経信が、ひょっこり目と鼻の近くに現れた事でした。経信はいくさ上手であり、家来は多いし、岡畑城は兵は少なく、いくさには不馴れで、どうする事も出来ません。仕方なく鎌倉に訴えて出る事に致しました。
 鎌倉の方も、(執権北条氏)一方は家臣であり、一方は初代の地頭で幕府は任命者ですから、どちらも立てたいが、それもならず。塩屋行久には近江の国で、別の土地を与えて、配置転換させることになりました。幕府としてはなるだけ地方でのこぜり合いを避けて、平和を保ち幕府の威信を示して、国力を充実させようとの配慮に外なりません。こうした施政がこの後元寇の国難に立ち向う、原動力になったのでしょう。
 衣笠城主二代目愛洲俊秀が、時の執権北条時宗の命を受けて元寇の役に参加したのですが、その時の様子を一寸と振返って見てみましょう。
 大陸を平定した元は高麗を従えた序に、足を伸ばして日本に攻めて来ました。文永十一年十月三日高麗(朝鮮)を軍船で出発した兵力は三万三千人と云われています。五日に対馬を破り、十四日に壱岐を占領して、二十日には博多湾に上陸しました。九州の少弐を大将とした、大友、菊池、竹崎の諸将が、次々と破れて、とうとう大宰府まで退かねばなりませんでした。戦争の方法や、武器がまるで違うので、とてもかないませんでした。その上、一騎打ちの戦に馴れている日本軍にとって、元軍はかねや、たいこを打ちならして、一団となって突進してきます。敵は長い槍や、毒矢をつがえた弓、飛んできて破裂する弾、等の新兵器を持っているので、さしもの鎮西武士もすっかり驚かされてしまいました。
 その夜突然大あらしとなり、博多湾に山のような大波が打ちよせ、荒れ狂った一夜が明けて見ると、湾を埋めていた敵船が一そうもなく沈み、おびただしい敵の死体が流れていました。
 翌年フビライは、日本に又使者を送って、降伏をすすめに来ましたが、北条時宗は使者を切って、返事をしませんでした。
 弘安四年フビライは益々怒って、日本を再び攻めることになりました。五月三日東路軍は四万の兵と、九百そうの軍船を浮かべて、博多湾へ押し寄せました。しかし文永の役から弘安四年まで、満六ヶ年の歳月がありましたので、幕府も防塁に力を入れ、九州の諸将も真剣になって海岸に石の防塁を築いてありますので、元軍は中々上陸することが出来ません。その上夜になると、草野経永や、河野通有等が、小船に乗って、敵船に近付き矢を放ったり、たい松に火をつけて投げ込んだりしますので、敵は手を出せず、江南軍を待つため、長崎県の鷹島まで引き上げました。
 江南軍とは元の中部南部の大部隊で、兵力は十万人、軍船三千五百そうの集団でした。西軍が鷹島で落ち合って、いよいよ博多に押しよせたのが閏七月一日でした。その夜、夜中から九州一帯が、物すごい大あらしにおそわれ、大船団はめちゃめちゃに壊され、沈められ、打ち上げられて、全滅しました。溺れなかった敵兵は鷹島に集まりましたが、日本軍のため、ころされてしまいました。この戦で命からがら本国に逃げ帰った者は僅か三万人であったと云うことです。これを後の人は神風と呼び、この事により、日本は神国であるとの自信を深めたとも言われています。




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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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