衣笠城物語

 今から約七百六十年程前、鎌倉幕府を開いた源氏の正統は絶えても、幕府は北条氏に受けつがれて権勢の強かった頃、北条時頼にうとんぜられて、南部の館に引籠もっていた愛洲八郎経信が口熊野で一番よい所と思ったか、又は秋津の地名にあこがれたか、衣笠山に築城して移って来ました。
 衣笠城は海抜二三四米ですが、なだらかな山で、山上での見晴らしは秀れて良い山です。愛洲氏は、この天然の美と、攻めるに難く、守るに易い、天然の要塞を選んで、築城を思い附いたのでしょう。
 衣笠山趾は上段の周囲八十米、中段の周囲八十米ばかりでその中に深い井戸があり、外側に空掘があって、要塞堅固であったことを物語っております。
 経信が衣笠城主となって、秋津と三栖の地頭職をつぐに付いては、塩谷氏と愛洲氏との間には、多少の反目はあったでしょうが、たいした戦争にもならず、塩谷氏が鎌倉に訴えて、近江の国に配地転換されることによって、けりがつきました。
 衣笠城主の最も栄えたのは、二代目俊秀の時代で、剣道は城内できたえ、弓道は谷を利用して訓練した、そこが今小矢谷の地名で残ってあります。太刀、強弓の主従が功績を立てたのが、あの有名な元寇の役でした。敵船は暴風雨のため覆され、敵兵はなだれの様に陸へ陸へと近付いて来るとき、百発百中の確かさで、弓を放った手ぎわは実に見事なものでありました。この功績によって愛洲氏は伊豫の国秋月の荘を加増され威勢は朝日の昇るような勢いでありました。
 秋津に来て一大面目を施したのですが、自分は源氏の出身だと言うことはきいているが、出世を告げる氏神さんがない、何とかせねばならんと思って、ふと気が付いたのが、高雄の山頂に近く、假宮の姿で残されてあった、愛宕神社でした。これを高雄と衣笠の中間にお迎えして、中宮と称し、愛洲氏の氏神として、鄭重にまつる事となりました。これが千光寺僧徒の激怒にふれ、後日千光寺僧兵のしゅう撃を受けねばならない運命となりました。
 この戦の時でしょう。篭城戦がつづいて、僧兵側は兵糧攻めに持ちこもうとして、一向に周囲をゆるめない。城中にもようやく焦りの色が見えてきました。幸い米は相当な貯蔵はあるが、水が不足し、野菜や魚などの副食も底をついてしまいました。城の水脈が断ち切られ、城内の井戸もくみ尽くしたら、天から降ってくる雨を待つより仕方ありません。
 絶たい絶命まで追い込まれた、或月夜の晩、寄せ手の物見の兵が、あわてて本隊に「城内の様子がおかしい。」と報告したので、武将たちが、城内をすかしてみると、どうやら馬を洗っている様子である。そして馬に何杯もの水を浴せているのが、明月下にはっきりわかったのでした。「敵方は新しい水脈を発見したのだろうか。」「いいや、そんなはずはない。」城内の兵は次々に馬を引き出して、どんどん水を使い流している。
 その夜周囲軍の武将会議が開かれ、一応衣笠城の囲みをといて、総攻撃は次の機会を待つことになりました。城兵は計略がうまく当ったので、狂い廻って喜びました。
 昨夜馬を洗ったと見せかけたのは、実は白米だったのです。月の光で白米は、まるで水のように見えるからです。完全に水脈を絶たれた城将にとっては、降伏か自決かの選択に迫られた、一かバチかの賭でありました。
 その後僧兵側が再び攻め立てて来た時、城内では、山の斜面一面に竹の皮を敷きつめてあったので、ただでさえ滑り易い山土に、竹の皮をしかれてはたまらない。寄手は次々に滑り落ちて、城を攻めあぐねてしまったのです。
 しかし寄手にも智之者があったとみえ、朝の露が乾いた頃、風向きを見計らって、ふもとから火をつけたので、竹の皮が導火線となって、一面が山火事となり、火は終わりに城内に燃えうつって、衣笠城も落城の運命に追い込まれました。城主は城に貯えられてあった、金銀財宝を埋め、後日を期して落ちのびて行きました。
 城主は城を去るに際して、
  「朝日さす夕日かがやく木の下 黄金千両後の世のため」
の辞世の一首を残して、最後に産土神を遥拝し、切腹して果てたと云う事です。そのお墓が南谷の奥にあって、高垣氏がねんごろにおまつりしていたと云うことです。
 衣笠が落城して、愛洲の一族は中辺路町の大内川に引きこもり、再起の時期を伺っておりましたが、約百年程たって、南北朝時代に、南朝に味方して、鷹の巣城を築いて、再び世に出ることになりました。この時先に衣笠城に埋めておいた金銀財宝を掘り出して使い果たしたものか、其の後城趾から金銀が出たと云う話は聞きません。只今もなお衣笠城趾で、元旦の朝金の奚隹が時を告げると言われております。山上に立って、昔をしのぶ時、雑草の生い茂る残塁の中に、寂しく古井戸があり、誰が立てたのか「衣笠城趾」の碑が夕陽に輝いていました。
 附記 先に述べました馬を白米で洗う様に見せかける戦術を、白米戦術又は白米伝説といって、よくある事です。この近くでも上岩田と岡の境にある国陣山にも同様の説が伝わっています。又竹の皮を敷いて滑らせ、城山に上り来る敵兵を防ぐ方法は、市野瀬の龍松城でも採用されたときいております。




: index :

1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

Copyright (C) 1984-2009 Akizuno Multimedia Group All Rights Reserved