山地新道記について

 奇絶峡の茶店の横を上ると少し壇になった所に大きな一枚岩が、傾いて立ってあります。これが「山地新道記」で、壇になってある所が昔の道です。碑面いっぱいに文字が書きこまれてありますが、百年余りの間にだんだん消えて、読みづらくなって来ました。しかしこの碑文には昔の人の願いがこめられてありますのでぼつりぼつり文字を拾いながら読んで見ることにしましょう。
 山地の里は細長く、百二十粁もつづいて、谷の間や山に沿うて家があり、平野はごく僅かで、その他は皆山です。山には立派な杉山や檜山があって、ここから切り出される木材は筏になって、川を下るのです。
 村には龍神温泉があって、病を治すには、まことに好い保養地です。昔から温泉に通ずる道は幾すじもありましたが、どれもこれも、茂った草を踏み分けて通らねばなりませんでした。このうち秋津を通って田辺に出るのが、一番近くて便利な道であったので、酒や醤油や、米や、塩は勿論、反物類や、食器類まで、大部分はこの道に頼っておりました。しかしこの道も、困難な二十粁の間を、一つの谷をさかのぼり、三つの峯を越え、また最後に長い橋を渡らねばなりません。特に川中の道は草木やいばらの多い、湿気まじりで岸はくずれ、山は険しく、流れは急で水音が雷のようにひびく所を、行商の荷持ちさんが、石につまづいて転んだり、いばらが足にささったりしながら、歩かねばなりません。もしよろけて足をすべらせば、深い谷や淵に転げ落ちて溺れるかも知れません。もしまた豪雨のあった後は洪水があふれて、橋は落ち、幾日も幾日も水の引くのを待たねばならん。その度に、山村は食物や物資に困って泣かされました。
 明治十年私が龍神に行く時この路を通りました。その時、先に聞いたのより、遥かに困難であると、なげきながら歩いていると、たまたま一人の村人に会いました。その人が云うには「あなたはどんな用事で、このけわしい路を越えるのですか。」と問うので、私はそのわけを話した序に「この路は修繕できますか。」と問うと、その人は教えてくれました。「修繕し易い谷路が一つあります。それはこの路を水に沿うて上れば虎が峯です。この峯は虎が首を縮めて、足を投げ出したような山で、ここに道路を通じようとすれば、三つの山を平らに越える工夫をすれば、きっと通ずることが出来ましょう。谷は水の少い所まで行って短い橋を架ければよいし、山は少し遠くまわっても低いところを越えるように工夫してみて下さい。あなたがこの道を開けば、山奥や谷間で腐ってしまう木が、焼いて炭となり、茶や椎茸や、紙の原料が、続々と運ばれて、運賃は安くなり、里人の仕事が増して、里人の貧苦を救う事さえ出来ましょう。どうかしっかりやってください。」と励まして下さいました。
 私は元来土木の仕事に従う者でありますから、龍神から帰る時も、色々実地を調べて、全くこの村人の教えてくれた通りであると思いました。
 そのため西は谷の道から工事を始めて、水源地までさかのぼり、虎が峯を越えて、北に折れ、更に谷を渡って旧道に従い延長十三粁を、両方から測量して経費を計算して、資本金は県からもらわず、村民にも課せず寄付金ばかりで、まかないました。
 その後木を切ったり、がけをこぼったり、石を積んだり、火薬を使ったりして、人夫四百四十人、奉仕の村民延五千九百九十人、準備した金百五十七金、三ヶ月の日数で完成しました。
 重役の那須新八郎が「文を作ってこの事を石に刻んで後世に残そうではないか。」とすすめるので、私は承知してこの碑を立てることにしました。
 明治十年十一月低級官吏小幡儼記す。
 この碑は漢文で、細かい字で碑面いっぱいにしるされてありますので、誰もあまり念を入れて読もうとしませんが、初めて奇絶峡を上って中山路まで、牛車道が出来たのですから、山路郷の人々の喜びを、今想像することができませんが、山路郷の生産の発達や、文化の発展にどれだけ貢献されたことでしょう。
 車で奇絶峡を見物したり、通行する人々よ、この奇絶峡にけわしい道を通じて、龍神の奥地を開発するため、昔の人々が、どんなに苦心し、苦労を重ねて来られたかを思い起して、今日坦々とした舗装された県道を走り得る幸福を考えて見て下さい。



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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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