奇絶峡の夢物語

 奇絶峡は東は高雄山と西は三星連山にはさまれた人里余りの紆余曲折した溪谷で、昔から何期の景勝地として知られ、春は花見、秋は紅葉狩りのお客さんがたえません。奇絶峡の中心は何と云っても赤城の滝です。初めてのお客さんは急いで滝見橋を渡ってしまうので、よく見落とすのですが、箸のたもとに句碑があって、「葛の花折りて滝見に上がりけり。」と松瀬青々氏の句が刻まれてあります。橋を渡って滝壺から少し上って岩かげに、不動堂があり、これを滝見堂と呼んでいます。
 滝の落口から遥か上手の一枚岩に石仏三体が刻み込まれてあります。これは大正、昭和の日本画の大家、堂本印象画伯の作を岩壁に刻み込んだもので、中央に阿彌陀仏、左右に観世音ぼさつと、勢至ぼさつがひかえてあります。しかしこの三尊は高い所ですから、滝見橋の上手の道路から、斜に見上げて拝んで下さい。
 さて遊覧客の皆さん、ここから上手は夢の世界ですから、ゆっくり歩きましょう。
 日暮し岩から百歩ほど上手道路の左手に、花折地蔵があります。ここから右手下に昔鎌淵呼ばれた淵跡があります。ここは古くから魔の淵とも言って、人々におそれられて来たところです。昔しば刈りにきたおばさんが、岩の上に鎌をおいて、休んでいると、するすると滑って淵に沈みました。又今までに何度となくいかだ流しの人が、とび口の先を取られたことがありました。底の見えぬ、何だか気持の悪い淵ですが、鮎の集まる所ですから、ある夜、鮎とりの夫婦が、ここまで川を上って来た時、妻は不安と寂しさで、「早く帰ろう。」と夫を促しましたが、夫は煙草を一ぷく吸って帰ろうとすると、蛇が岩の間から姿を見せて、すぐまた引こんだので、男は「も一度出て来い。」と叫ぶとまた姿を見せました。男はだんだん気味は悪くなって逃げ帰ってきたと云うことです。また或る人がここで休んでいて、斧を取られたので、そっと淵をのぞいて見ると、笠をかぶった子供の姿が、見えたと云うことです。その後村の人々は、ごうらの出る淵だと恢れるようになりました。この淵でごうらに引きこまれて死んだ人々の供養のために建てられたのが、花折り地蔵さんだそうです。
 ここから少し上ると、道の右側に「大人の足跡」があります。昔龍神社参道に「稚児の足跡」と言う所で、岩へ上ったり下ったり、岩から岩へつたったり飛んだりして遊んでいた子供が、或る日大きな岩に小さい足跡を残して、東の方へ飛び去りました。この子供が奇絶峡におり立った時には、雲をつくような大人になっていました。大人が高雄山に腰をかけて、田辺浜で足を洗ったり、魚を釣ったりする時、右足をこの岩にかけて踏ん張ったので、こんな大きな足跡が残ったのだと言われています。
 大人の足跡から少し上って、左側の谷間の奥に「行者岩」があります。ここに大きなほら穴があって、行者さんが修行のため、寝起きされたのでしょうか、このほら穴にその後お坊さんが住みついて、毎日石を燃やして、暮らしていたと言うことです。
 行者の岩の入り口から、二三百歩上って、右手川を渡って向うに「唐戸岩」があります。神代物語の「天の岩戸」に似た扉が見えます。昔この辺りに鬼が住んでいて、通行人なやますので、恐れられてました。その頃一人のお坊さんが通りかかって、ごきとうをして、鬼をこの扉の中に封じこんで、扉に文字を書きつけ、後々この文字を読んでくれるまで、出てはならんといましめました。或る人がこの文字を読んで終りに近くなった時、急に扉の中がうなり出したので、怖ろしくなって逃げてしまいました。
 またこんな話もあります。千光寺が焼けてから、三十年程も後のことです。千光寺をたずねて、高雄山に上りましたが、お寺は焼けてしまってありません。お僧さんは仕方なく、千光寺の隠居であった、禅定房に入って住んでいましたが、このお坊さんが亡くなる時この扉の中に入って、もし後々扉の文字をまちがいなく読んでしまった人には、この中にある宝物を全部あげる。しかし読みもしないで、開けた時には、どんなさいなんが起こるかも知れない。といましめたと言うことです。
 唐戸岩と川をはさんで、左側の山の上に、「禅定房」と呼んだ千光寺の隠居があったのですが、千光寺が栄えていた頃は、時々訪れた高僧の坐禅の場となったでしょうし、修業僧が熊野の方から、たくさん出入りして居りましたから、奇絶峡にきて、滝に打たれて修業し、禅定房で坐禅を組んで修業した大切な遺跡ですが、今は何もなく只、堂のくぼと云う地名だけがわずかに残ってあるだけです。
 皆さん、奇絶峡は景色がすぐれてたくさんの人が遊びに来ますが、お弁当を食べたら、すぐ帰らないで、色々な伝説をたどりながら、昔の人の夢を、今ふりかえって味わうのが、楽しい旅でないでしょうか。


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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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