鷹ノ巣城と阿彌陀堂今から凡そ六百年ほど昔、世は南北朝に分れて、お互いにあらそった時分、紀南では湯川氏は北朝に味方したが、愛洲資俊は南朝に味方して、高雄山に鷹の巣城を築くことになりました。その時分中宮さんはもう野久保に移って百年ぐらいも経っていたのですが、中宮さんの天狗はまだ元の高雄山に残っていたのでしょうか、大へんあばれて、工事に来た人を次ぎ次ぎに投げ飛ばして、たくさんのけが人や、死者が出ました。そこで資俊はなんとか、この天狗をしずめてもらいたいので、弁天さんに籠って、岩井谷で水ごりをとり、七日七夜のご祈とうを始めました。やがて満願の日、ふしぎにも、弁天さんの森から黒い雲がたちのぼって高雄山に沿うて流れて行きました。すると大倉の千匹猿がこの雲にのり移って、鷹の巣の上空にさしかかった時、たくさんの猿が雲から飛び下りて、いばらや萱をふみつけて、築城を助けました。資俊は大へん感激して、城の中にほこらを造って、弁天さんをお迎えし、手厚くまつったと言うことです。皆さんあの鷹の巣の絶壁の上に、檜の香りも新しい、お城のやぐらが、夕日にはえて輝く壮観をご想ぞう下さい。さて、城は出来ましたが、世は平和が続いて二百年ばかり戦は一度もありませんでした。平和な時代には城の中で生活出来ませんので、みんな下りて来て、衛門平(発電所の向側)で暮すようになりました。愛須氏はここに築城して、秋津の地頭を勤めておりましたが、二百年も戦争がなく、愛須主従二十四戸は退屈して、毎日三味線をひいて、浄瑠璃を語ったり、歌を歌ったり、お酒をのんだり、平和な日々を過しておりました。何時の世も平和な楽しい生活はそう長くは続きません。 今から四百年前、豊臣秀吉の南海征伐の軍勢が、和歌山を陥れ、海南を破り、御坊を倒して三千人の兵士がどっと、田辺になだれ込みました。田辺でも手当たり次第に焼払って、大軍が秋津に現れたのですからたまりません。 鷹巣城も千光寺の僧徒も必死になって、戦ったのですが、この大軍をどうする事も出来ず敗れてしまいました。その時千光寺は何百年も続いて栄えた、本堂も塔も山門も、全部焼き払われ、鷹巣城は敵兵に包囲されて、全員打死するより方法がなくなりました。或る日城主長俊は笠をさして、がけを飛び降り敵の真ん中で、一人奮戦して見事な戦死をとげました。つづいて妻お杉さんも笠で飛び下りたのですが、「女は相手にするな」と命令があったのでしょうか、奥方の命は助けられました。このどさくさを利用して愛須の一族は、虎ケ峯を越えて龍神に逃げ、山を越えて十津川に蔭れたと言うことです。家来や部下は降伏して、武器をすて、名字を捨てて、百姓となり、秋津にすみ着いたのでした。玉井や、郷地や、田中などは、家臣の主なものであったでしょうし、愛須も関係の深い一族であったのだろうと思います。 さて城を代表して、壮烈な戦死をとげた、長俊さんは、里人から惜しまれ、憐れまれて川中島の大榊の根本に小さな祠を立てて、まつられましたが、明治二十二年の大洪水の際、島もろ共流されて、今は何も残ってありません。 敵からのがれて命の助かったお杉さんは、里人から愛されて、この地で余生を送ることになりました。お杉さんはまもなく出家して、おつきの方と共に墨染の衣を着け、なくなられた夫長俊の霊をなぐさめて、毎日読経の声がたえませんでした。 お杉さんは大谷部落の方々に、見守られ、惜しまれて亡くなられましたが、その遺灰は大谷川の畔に葬られて、其の上に墓石を立て、かたわらにお杉の方をまつる堂を建てて、戒名が安置されました。 又里人はお杉さんを失って、敬愛の情をおさえかね、今まで呼んでいた衛門平を杉の原と改めて、永く後世に其の名を伝えようとした気持ちは、本当にうるわしい情景で涙を誘います。 阿彌陀堂にはお杉さんの自作の像と思われる、仏さんがまつられてありますが、その前に坐った時、阿彌陀さんを刻んで、夫の供養や、家臣の無事や、親切にして下さる里人の幸せを、毎日祈りつづけていたお杉さんのお姿が目の前に浮んでくる感がいたします。又戒名には、「霊感院杉月妙照大姉位」としるされ、裏面には「年代不詳俗名杉女事」と記されてありました。又傍の墓石には「杉女一統之墓」ときざまれてありましたが、お侍きの方々も皆なくなって、この墓所に埋められた誌であろうと思われます。 お杉さんの仏心は里人の心の中に充分通じ合うものがありましょうし、お杉の方の霊魂はとこしえに、杉の原の里人の心の中に生きて、うしなわれないであろうと思います。 |
1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。
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