鷹尾山と千光寺

 今から千二百年も前ですが、和気清麿さんが、大切にしていた鷹が死んで、その遺骨を三つに分けて、紀州の高雄山と、都の高雄山と、郷里の備前の高雄山とに分けて葬りました。その時紀州の高雄山には神護寺を建て、厚く弔ったと言うことです。なぜこんなに手厚く弔ったかに付いては、何も書き残されたものはありませんが、和気清麿が都へ出て、最初の役が、御所の門を守る兵隊さんでありました。清麿は鷹を飼ってありましたので、時々上役の方々を連れて鷹狩りに行って、みんなから良い鷹だとほめられていたのでしょう。清麿はだんだん出世をして大臣にまで上りました。鷹が死んだ時、自分の出世の恩人のように思って、大切に弔ったのでないでしょうか。清麿が、千光寺を建てた時に、京都から愛宕さんを迎えて寺の氏神さんとしてまつったのが、今の中宮さんです。
 千光寺は、元は大きなお寺で、山門、本堂の他に、僧堂もあり、尼堂もあり、水ごりをとって坐禅した閼伽堂もあり、鐘楼もあり、庫裡もそろった立派なお寺であったようです。本尊は千手観音さんで、えらいお坊さんの作ったものだと言われています。
 このお寺の本堂跡の上に三つの経塚がみつかりました。(経塚とは、お経をたくさん書いて埋め、亡くなった方のお弔いをしたもの)その真中の塚から、鏡が九つ、刀が十一振り、箱が十六箇も出て来ました。そのほかに、鏡箱や、扇や、櫛や、おはぐろど、たくさんの立派なものが掘り出されました。この経塚が後の調べによって、やっと藤原道長の七番目の女尊子のものとわかりました。藤原尊子が村上源氏の師房にお嫁入りする時この秋津の荘を持って、お嫁入したのでしょうか。平安朝時代には秋津の荘は藤原氏の荘園でありましたので、ここから納める年貢は皆藤原氏の収入であったのですが、尊子が父道長から、ゆずっていただいてからは、この年貢が貯えられてありました。尊子が亡くなった時、このお金で高野山に一乗院を建てて、お墓をつくりその後、孫や、ひ孫のお墓が次々に立てられました。このように秋津の年貢で建てたお寺であるから、秋津の人が高野山へお詣りした時は、きっと一乗院に泊るのが常でありました。
 尊子のお墓が一乗院にまつられて、何回忌頃であったのでしょう、追善供養のために、元の荘園であった高雄山に、立派な経塚が出来ました。その後孫の雅実や曽孫の雅定の経塚も祖母尊子の左右に造られたのではないでしょうか。経塚から出た発掘品は今全部東京の博物館に保存されているし、この経塚発掘の記念に出来たのが、頂上にある記念塔です。
 千光寺は名高いお坊さんや、たくさんの修行僧が出入りする、有名なお寺でありましたが、豊臣氏の南海征伐の際、焼き払われて、見る影もない有様となりました。信仰の中心を失った里人はたまりかねて、快岫和尚をたすけて、焼け残りの材を拾い集めて、麓に小さな堂を建てる事になりました。この和尚を千光寺中興和尚と呼んでおります。
 この建物もまた、家事のために焼けて、平岡の地に移り、元この地にあった西光寺を合併して、千光寺が建てられることになりました。そのため西光寺の本尊薬師如来(聖徳太子の作と伝えられる仏像)は、脇士日光、月光(行基の作と云う)と共に千光寺の本堂にまつられました。これ以来千光寺は近西国札所二十五番となり、その御歌に、
「名にうてし鷹尾の山に来て見れば、もみじ色づく千光りの寺」
 千光寺が平岡に移ってから六代目、享州和尚の時代に夢の告げによって、旧鷹尾の寺屋しきから、古いお墓を二つ拾ってきました。一つは開山得中和尚の碑で一つは畠山持国の碑でありました。開山の碑は今も、寺の墓地にまつられてあります。
 寺は出来ましたが、鐘がないので一番気をもんで苦労された方は、南海和尚でしょう。和尚一代の内にはならず、隠居してから、やっと出来ることになりました。
 鐘には次のようなことが、書きつけられてあります「千光寺には山号を高雄といって、世の中の塵をはなれて清らかで、前にはこのまま廃れてしまうのではないかと、心配する頃もありましたが、今はだんだん栄えてまいりました。鐘は立派に出来ました。今この鐘を一つ撞けば、人々は皆目をさまして、その日の仕事に希望をもって立ち向います。音はまた四方にひびき渡って、あの世では苦労を忘れる音楽となり、この世では悟りを開く音楽となります。またこの音楽が土に伝われば、草木は自然の恵を知って、芽を出してきましょう。」
 南海和尚の一生の願いが今果たされました。そして其の名は鐘のひびきと共に永く伝わるでしょう。
 昭和の初めから四十数年間、寺主の座を継いでこられた祖燈和尚は、自分の一生一代の念願として大般若経の書写を始められました。終戦をはさんで、大勢の戦死者の霊を弔いながら、寺の式典や、寺の事務のあい間をぬって、一心不乱に書きつづけられました。そのうちには、紙の不自由な時代もあり、病のため筆のとれない時もあったでしょうが、それ等の障りをのり越えて、とうとう六百巻の書写が終わりました。
 この大きなご功績が認められて、大本山妙心寺から、緋衣着用の位を賜りました。祖燈和尚が一生をかけた、この大般若経こそ、大切なご本尊や、有名な鐘と共に、千光寺の宝として、永く受けつがれていく事と思います。





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1984年発行の、『ふるさと上秋津 ー古老は語る−』を、2009年秋津野マルチメディア班がWeb版に復刻いたしました。

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