●水が育んだ秋津野の食文化
直径約二メートル、大きな口を開けた仕込み桶のなかで、もろみは、呼吸をしているようであり、まどろんでいるようにも見える。違いがわかりますか、秋幸醤油四代目黒田庫司さん(1940年生)が笑顔でふり返った。二年の時を経てきたもろみがなめらかな醤油色をしているのにくらべて、ことし初めに仕込んだというもろみの呼吸は若く荒々しい呼吸をしていた。
秋幸醤油は、上秋津に一軒だけある老舗の醤油醸造販売元である。右会津川のほとり、かつての秋津街道に面して建つ。創業は1890年(明治22年)、店の名の「秋」は「上秋津」「秋津野」の「秋」に因る。1929年(昭和3年)に建てられた木造の店は、70年以上の年月を経て風格がある。
玄関を入ると、左手に帳場と座敷がある。間取りは「田」の字型である、熊野地方で広く見ることができる、建築様式である。醤油蔵は紺のれんをくぐり、中庭を抜けたところにある。屋根までの高さは七、八メートルはあるだろうか、空間が上に向かって伸びている。むき出しの梁、内部は屋根裏近くにある天窓からの外光で、うっすらと明るい。醤油独特の香りが、匂う。この店の醤油づくりは、一部をのぞき、ほとんどが手作りである。大豆を蒸して、麹麦をまぜ、室のなかに入れて、麹菌をつける。そうしてできた醤油麹と塩水を、二月中旬から四月末にかけて、むろ杉の木でつくった桶に仕込む。桶は直径二メートル、深さ一・八メートル、「三〇石桶」と呼ばれる木樽である。4キロリットルのもろみが入る。仕込みは黒田さんと長男和憲さん(1971年生)の二人だけでおこなう。
黒田さんの蔵では、もろみは三年から一年寝かす。夏には、「プツプツ、プツプツ」という音が蔵のなかに響く。「夏を何回通ったか(過ごしたか)。時を買うてもろうているのが、うちの醤油です」。熟成し、その時が来ると、もろみを圧搾して、しぼり出す。これが「生揚」である。「生揚」にきあげ火を入れ、炊かれたものが、醤油になる。黒田さん親子がつくる「天然醸造醤醢露」は、普通豆かすからつくる製品とは異なり丸大豆ひしおづゆからつくる。大豆の成分を十分に引き出すためである。刺身醤油、かけ醤油としてつくられており、ピリピリした「塩角」がとれたしおかど醤油の色は、黒色に近く、濃厚でまろやかだ。
いま作っている製品は、一二種類あまりの醤油と、味噌、径(金)きん山寺味噌である。昔ながらの醤油の味を守りながら、時代が求めるざんじ味を追求する。小さな会社ならでは、の仕事である。「大手メーカーと競争をしても仕方がない」。客は、地元にとどまらず、近畿一円、さらに北海道から鹿児島県まで全国におよぶ。初めて口にした女子学生がすぐにファンになって、注文してきた。手づくりへのこだわりは、小さな店の経営にとどまらず、地方の一小地域が存続し持続していくうえで示唆に富む哲学がある。
江戸時代は紀州徳川家付け家老安藤氏が治める三万五千石の城下町として、明治時代以降は紀南地域の政治・経済・文化の中心都市として発展してきた田辺市。田辺味噌醤油協同組合に加盟する業者は2003三年11月現在4社だが、1960年代後半(昭和40年代初め)には、二倍以上の8軒から9軒もあった。海からの影響を受ける温暖な気候風土と地下水の存在が、この地方に醸造産業の発展を促したと
考えられる。大手醤油メーカーの市場支配が強まるなかで、衰退し続けてきたのが実状だ。しかし、人口七万人ほどの地方都市に、10軒近い業者が生まれたということは、それだけ地域内で活発な経済活動が展開されていたことを示す。
黒田さんの店の敷地内に、一本の井戸がある。水は、地下4メートルのところから汲み上げる伏流水だ。ここでは、「砂地が濾過し、きれいな水にする」。醤油づくりもまた、水に敏感である。水は健康か、病んではないか。醸造の仕事場から、地域の環境が見える。黒田さんの言葉が上秋津の水の文化探しへと誘う。 |