●農と水の歴史を伝えて上秋津の近代化遺産
近代化遺産は、ここ10年ほどの間に、少しずつ目を向けられるようになってきた「文化財」である。
「近代化遺産は、近代を担った各種の建造物や工作物を意味し、土木・交通・産業遺産の三種類がある」。一九九三年(平成五年)、文化財保護法の改正によって「重要文化財にあらたにもうけられた種別」(『日本の近代化遺産新しい文化財と地域の活性化』伊東孝著岩波新書)で、文化財としての保存をとおして地域づくりの資産としても見直されつつある。
上秋津には、そうした「遺産」が右会津川と流域に散らばっている。
右会津川の上流、奇絶峡の川中口トンネル下に、関西電力川中口発電所がある。1911年(明治44年)3月、当時の上秋津村に住む丸山源次郎と鈴木喜三郎の二人は、あるプロジェクトを思いつく。それは、奇絶峡に水車を設置して、落差がある地形と豊かな水量を利用し精米と製粉事業を始める計画である。水車は、ベルトン式あるいはタービン式と呼ばれるものであった。
翌1912年(大正元年)12月、丸山らは川中水力電気合資会社を創立、電気事業法の許可を申請し、2年後の1914年(大正3年)認可された。近畿地方で2番目の水力発電所の運転であった。
経営・工事はその後、秋津川水電株式会社が引き継ぎ、1918年(大正7年)7月に点灯を開始した。出力160キロワット、奇絶峡の山あいで生まれた電気は下流に送られて上秋津、下秋津、稲成、三栖など田辺市と、南部川村などの各村に配電された。「発電」を目的とした水利使用・管理者は、その後いくつかの団体の手を経て、関西電力株式会社に引き継がれた。
こんにちではすでにその使命を終え、施設が残るだけである。石を敷き詰めた堰堤、取水口のある水門。 取水量は毎秒0.156立方メートル、落差を利用して電力を生みだした。許可期限は2005年(平成一七年)12月31日、撤去される見通しだ。「土木遺産」として残そう、という声はこれまでのところ小さい。
発電所に関連してもうひとつ残るのが、川の右岸、奇絶峡の山すそを巻くように約1キロ下流の川中口橋の近くまで続く道である。石板を敷いた幅1メートルほどの道の下は、水路になっている。幅が狭いところは、水際から、石を石垣状に1メートルから2メートル近い高さに積み上げている。道は、その上を通り、道の下には水路が曲がりくねりながら伸びている。
1889年(明治22年)8月に紀伊半島を襲った大水害。水害のあと、上秋津の迫戸地区には堰堤が築かれた。設計者はオランダ人のヨハネス・デレーケ、明治初期に日本に招かれた治水技術者で、日本の近代河川土木史に足跡を残す人物である。デレーケが設計し、派遣されてきた技師のもと、村人の協力でできあがったのが、迫戸地区の堰堤であった。当時の復旧工事としては、紀南地方で最大の工事だったとされる。1世紀あまりの歳月を経て、迫戸の堰堤は大半が土砂に埋まった。佐向谷川では、1972年(昭和47年)から相次いであたらしい5つの堰堤が築かれた。
また、右会津川には、「一の井」「二の井」と呼ばれる井関があり、農業用水の水源となっている。 川に関係するこうした河川土木遺産は、近代化遺産として位置づけられる。そのひとつひとつが、農業で生きてきたこの地域の歴史の証しにほかならない |