●海・まちと山村を結んだ街道秋津街道のこと
右会津川の右岸をとおる道がある。道幅は3メートルあまり、車がすれ違うのがやっとの、細い道である。本瓦葺き・真壁造りの古い民家や商店が軒を並べる素朴な家並み。かつて、まちと山村、田辺市街地と龍神村さらに奥地の高野とを結ぶのは、この一本の街道だけであった。地元の人たちは懐かしさをこめて、「秋津街道」、あるいは「龍神街道」、「岩内街道」と呼ぶ。
旧街道の時代の上秋津における中心が、岩内地区であった。
家と家の間を抜けていく約800メートルほどの道。そこには、明治から大正、昭和初めの歴史の面影が破片のように残り、「時間ときの回廊」にまぎれこむ心地がする。
八代続くという石材店、醤油醸造の店と醤油蔵、自転車・単車の販売店、雑貨を置く商店。いまも地元のひとたちの暮らしのなかにある建物たち。堤防沿いの新道と旧街道が分かれるところ、旧街道の入り口に面して「野鍛冶・農機具」の看板を掲げる家がある。
鍛冶職人小田宏さん(1927年生)は隣りの南部川村清川の出身で、小学校を卒業すると親類を頼って上秋津にやって来た。そして、土地で鍛冶屋をしていた野田源吉さん(故人)に弟子入りする。鍛冶職人として一人前になるには、約5年かかった。戦争の時代を経て、上秋津に帰った小田さんは、再び仕事場に立った。
鍛冶屋の仕事は、「早寝早起き村の鍛冶屋」の歌のとおり、夜明けと同時に始まった。ふいごに使って打ち、打っては炭の中に突っ込み、取り出してはまた打つ。この作業を何度も繰り返し、鉄は鍛えられる。刃の部分は鋼で、鋼は鉄の板の先はがね端にのせ、薄くなるまで打つ。燃料はいまはコークスだが、むかしは主に
松炭を用いた。若いころは、「鍬ならば一日2〜3丁を作った」という。
鍬、三つ又、山堀り鍬、小田さんは農機具ならばほとんどの製品を扱った。山堀り鍬は開墾のときに使われた道具で、上秋津では高尾山に畑を切り開くのに使われた。農家からは、農作業ですり減り、摩耗した道具が持ち込まれる。それをもとのように直すのを、「才カケ」という。仕事は途さい切れることがなかった。「ミカンやウメ畑の植え替え時期である一二月から三月は、とくに忙しかった」。いまは見ることができなくなったが、「秋の稲刈りが終わると、農家には株切りという鍬で稲株を切る仕事があった。
わたしらの若い時分は、たんぼが多かったのです」。稲株を切り、そのあと麦蒔きの作業が始まった。
上秋津のほとんどの農家には、小田さんが手がけた農機具があるといわれる。地域になくてはならないひとが、小田さんだったのである。鍛冶の仕事場から、上秋津の農業のもうひとつの歴史と変遷が見える。七〇歳も半ばにさしかかった「村の鍛冶屋」小田さんはいまも、仕事場に立つ。
現役で活躍する建物群、他方で時間を止めた建物が、上秋津にはある。瓦を焼いていた製造販売会社、洋風建築の旧医院、木造二階建てのもとの駐在所。忘れられつつある時代と現代という二つの時間が、岩内地区の旧街道がとおる家並みのなかを交錯する。
県道田辺龍神線は川をはさんで、旧街道と並行するように走っている。田辺龍神線が整備され県道に認定されるのは1985五年(昭和60年)県道の開通によって、上秋津の中心は右岸から左岸に変わるのである |