●石仏が微笑み、神々が見守る里
鷹尾山千光寺は、高尾山の山すそに建つ臨済宗妙心寺派の寺院である。上秋津小学校のそばから、竹林がある坂道を少し登った小高い場所にある。山門をくぐると、正面に本堂、右手に庫裡、左手に鐘楼などが建っている。
本堂に掛かる、色鮮やかな群青の力強い文字で記した「高尾山千光寺」の額、山岡鉄舟の筆になる。
本尊は観世音菩薩で、行基の作と伝えられる。
言い伝えによれば、この寺の起源は約1200年前の八世紀にさかのぼる。建立したのは和気清麻呂とされる。これも寺伝だが、清麻呂は京都と岡山、そして和歌山の三つの高雄山に寺を建て、飼っていた鷹の死を悼み、骨を埋めて弔ったのだという。
千光寺がいまの場所に建てられたのは、江戸時代になってからのことで、創建当初は高尾山の中腹、標高300メートルほどのところにあったとみられる。宗派は天台宗で、創建時は七堂伽藍を有した大きな寺で本堂山門のほか、僧堂、尼堂、(あか)堂、鐘楼などが建ち並ぶ大きな寺であった。山岳修験者をはじめ多くのひとたちの信仰の寺であった。しかし、天正年間の1500年代終わり、豊臣秀吉の紀州攻めによって堂塔はことごとく灰燼に帰した、と寺伝は語る。現在の建物は、改築から100年も経っていないが、高尾山を借景としたたたずまいが美しい。
「中宮さん」、中宮神社は、奥畑地区にまつられる神社である。奈良時代に清麻呂が京都から愛宕明神を迎えて、寺の氏神としてまつったのがはじまりとされ、その後鎌倉時代には土地を支配した愛洲氏によってまつられた。当時は桧造りの社殿が建ち、流鏑馬などもおこなわれたという。現在では、やぶさめ
鳥居と拝殿、石垣を積んだ上に小さな社があるだけだが、秋祭りのころには出店が並び、餅まきでにぎわう。以前は境内の相撲場で、近郷近在の男たちがぶつかり合い力を競った。
川上神社は、戦国時代に河内のひと野村氏によってまつられるようになった神社で、上秋津をひらいた神々たちをまつる。こんもりした森のなか、石垣をめぐらした内側に社殿が建つ。
佐向谷をさかのぼった山のふもとに、磐上神社がある。農耕や薬をつかさどる神である。『紀伊続風土記』が「大石を神としてまつる祭礼11月15日」と記す立岩明神はこの神社のそばにあったが、明治時代に合祀された。
また、竜(龍)神山には、500メートルの山の上に弘法大師が開いたと伝えられる龍(竜)神宮があり、下畑地区には市杵島神をまつる市杵島神社(いちきねじま)などがある。
上秋津は、石仏が辻々の至るところにまつられているのも特色である。多くは「お地蔵さま」で、江戸時代の石仏が多い。村を守り、農民を守り、子どもを救うと信じられてきた地蔵信仰。この土地に生きてきたひとたちの素朴で、ひたむきな祈りのかたちである。石仏はそのやさしいまなざしで、上秋津とそこに生きるひとたちを見つめ続ける。
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