農の歴史を大切に 土と生きるひとたち

● 農の歴史を大切に 土と生きるひとたち

 「父の背中を見ていたら、農業をするのもおもしろいなと思いました」。青年は、大学卒業後ふるさとに帰り、農業の仕事に就くことを選んだ。それは大学四年間に学んだ学問とは違っていた。青年の顔は農業に生きる自分自身にたいする自信と誇りに満ちていた。だからこそ、農業の明日が気がかりなのだ。にしても、農業の「楽しさ」を背中で語った父がすばらしい。そして、この父と息子の向こう側に、土を耕し、種を蒔き、苗や木を育て農業に生きる上秋津の何人ものひとたちの、すがたが重なる。
 
@栽培する品種は約60種類 上秋津は柑橘の里
ミカンの旬の季節といえば、一般的には秋ということになる。ところが、上秋津は冬から春、さらに初夏にかけて柑橘の生産・出荷が途切れることなく続く。ここは、一年を通してほぼミカンが収穫できる果物の里である。 柑橘づくりは、9月下旬から10初めに極早生温州ミカンが収穫され、11月ころまで出荷が続く。
 12月は温州ミカンの取り入れ、出荷の季節である。上秋津の温州ミカンは、木に成ったままで熟成させる完熟ミカンである。
 12月から2月は伊予柑やポンカン、春に向かってネーブル、デコポン、清見オレンジ、八朔などが旬を迎える。
夏にはバレンシアオレンジがある、柑橘の生産で一年がめぐる。三宝柑や仏手柑のような紀州ならではの柑橘から、柑子ミカンや九年母など古い時代のものまで、上秋津でつくられている柑橘は、約60種類にのぼる。 田辺市周辺は、日本で一番日照時間が長い地域である。年間の平均気温は16.5度前後、降水量は1650ミリ。柑橘栽培に適した温暖な気候、日照時間と日当たりの良い地形など、天然の好条件が重なって、品質がよいミカンを生む。
 
柑橘作りの歴史は、キンカン栽培に始まるといわれる。江戸時代の終わり、文久年間に地元の高木伴七が試植に成功し、1877年(明治10年)、杉の原の山林を開拓して数百本の苗木を植え、村内に広まった。キンカンは、現代も上秋津の特産品のひとつで、12月に出荷されている。 ミカンの栽培は、明治時代中頃からである。初めの頃は小ミカン、八代などが盛んに植えられたが、太平洋戦争後はおもに
山の斜面を利用した温州ミカンの栽培が、ミカンづくりの主流になっていく。昭和30年代、上秋津でも増産をはかり、果樹経営が発展していった。また、八朔やポンカンなどの晩柑類もよくつくられるようになる。多種多様な柑橘の里上秋津は、こうして実現した。 しかし、その間、昭和40年代になると、産地間の競争が激しさを増し、ミカン価格は暴落し、生産調整がおこなわれた。「豊作貧乏」の言葉が登場し、果実を間引く「摘果運動」が叫ばれ強力に推進されるようになるのは、昭和40年代後半からである。果樹経営は危機にさらされ、地域農業が存亡の岐路に立たされる。そうしたなかで、青年農業者たちは、柑橘の優良品種の導入などの努力によって活路を切り開いてきた。栽培が始まり約一世紀、上秋津は現在和歌山県を代表するミカン産地に数えられる。

 多くの種類の柑橘類を導入・栽培し、周年出荷が特徴の上秋津の柑橘類づくり。これからもミカンとウメの里として生きる、という農家の考えは変わらない。しかし、どのようなミカンの里をとなると、将来図は異なる。従来通り「多様な柑橘類を生産」していくという声と、「収益性のある品目に特化したい」という声が、それぞれ三割前後で拮抗する。ミカンの里・上秋津はどのような方向に向かうのだろうか。