久保田地区

久保田地区

集落 住宅は 久保田地区120 戸(昭和56 年ぐらいは56 戸前後)
   

資源
 お地蔵さんは集落のみんなで管理している。自分たちで作った餅で餅まきをしたり、ちょうちんを飾ったりする。
 池は用水委員で管理している。辺谷池・出会い池で泳ぐ(多いときは50 〜 60 人)当時、親は池で泳ぐことには無関心だった。藤谷池で泳いだがもう藤谷池はない。池で泳いだのは昭和30 年代ぐらいまでである。衣笠山には海兵団の防空壕跡がある。

自然
 今は水田はほとんどない。久保田はまだある(6 、7 反ぐらい。昔は10 町ぐらいあった)奥畑にはない。今あるみかん畑などは昔はほとんど水田だった。山のほうの段々畑の高いほうまで水田だった。水は谷からひいていた。久保田は一番水田が多く、「米ぐら」と呼ばれていた。水田にいたイナゴを取って焼いたり、天ぷら、佃煮にして食べた。他にも子供のころは、食用蛙、小さいサンショウウオ、木虫(キムシ)なども焼
いて食べた。稲を刈ったあとタニシが多くてそれも食べた。
川にはうなぎがいて溝から道に上がってきて、そこから池へ入っていったりした。川のうなぎは色が濃く池のうなぎは色が白い(薄い)。夜、ガスランプで照らして捕まえ、また川をせき止めて淵を作り泳いだ。
山遊びは、コシキやしいの実、やまもも、むかごの実を取りに子供達が集まった。他にも栗やアケビ、くわの実、シナモンを取って食べた。ターザンごっこ、桜の木でチャンバラごっこをした。また竹やぶで遊んだり、木の上に遊び場や家を作った。
 周囲の山は松山でマツタケが多くとれた。肉はマツタケより貴重だった。現在は松くい虫による松枯れが深刻化している。