美しき水の里のいくつもの自慢
2.天然水ブームのなかで
上秋津から秋津川、龍神村方面に向かい、右会津川をさかのぼるように県道を少し行くと、山峡にはいる。屏風を立てたように垂直に切り立った山塊、むき出しになった岩肌がみせる荒々しいまでの風景は水墨画に見る中国の奇峰を想像させる、それはそこが都市近郊であることを、一瞬忘れさせる。奇絶峡は、上秋津の上流に位置する峡谷である。山肌のあちらこちらから湧き出す水は清らかでやさしい。「奇絶峡の水」である。地元では、この天然水で、茶粥を炊いたり、お茶を湧かす家庭がある。
日本で天然水に対する需要が、急激に増え始めるのは1990年代に入ってからである。水への関心が高まってきた背景には、「安全」「健康」にたいする日本人の危機感がある。その結果、「水はタダ」ではなくなった。水は金を出して買って飲むのが当たり前、という考え方が日本人の間で急速に広がっている。水道水は飲み水ではない、そう教えられ考える若者が、こんにちでは多数派である。
田辺市にある業者は、奇絶峡の水を上秋津地区の集落近くまで引き、販売機二機を設置して販売している。10キログラム100円、20キログラム200円、硬貨を入れれば給水できる仕組みである。成分表によると、奇絶峡の水は「ナトリウム、カルシウム、マグネシウム、カリウムを含む硬度5のナチュラルミネラルウォーター」とある。
奇絶峡には、休日ともなると、ポリ容器を車に積んだひとたちの姿をみかける。市内だけではなく、市外から来るひとも目立つ。「天然水はまろやかで、おコメの甘みを引き出してくれるのです」、茶粥をよく炊くという地元の女性は、こう教えてくれた。
右会津川のほとり、上秋津の農産物直売所「きてら」のそばに、2003年春開店した喫茶店がある。店の名は「いこら茶屋」、「いこら」は「行こう」のつづまったかたち、「ら」は「〜しょうよ」、つまり紀州方言である。この土地を訪れたひとたちが買い物帰り、あるいは一杯のコーヒーを飲みに立ち寄る上秋津のちょっとした観光新名所になっているほか、地域の人たちの新たな交流の場にもなりつつある。小屋風のつくり、外観から店内のいたるところまでに木がふんだんに使われ、店内に入ると、コーヒーのいい香りがただよう。マスターである田中淳夫さん(1952年生)は、とにかくこだわり派である。コーヒーはウガンダ・エルゴン山の野生コーヒー豆、焙煎し豆をひく技術、使う水は「地下水」である。田中さんのコーヒーを飲んだ龍神村に住む元フランス料理レストランのシェフは、一度でその味が気に入り、「本物の味」と評価する。
「コーヒーの味にこだわると水道の水ではダメなんです。水は、地下9メートルから汲み上げています」、田中さんはこう言って水質の良さを自慢する。お客にも「のどごしがいい」「柔らかい」、と好評だ。
緑陰のテラスで、川の流れを見ながら飲むコーヒーは、40メートルほどの地中を流れるという豊かな伏流水に思いをめぐらさせる。ここには、語らなくてはいられない「水物語」が、いくつもある。
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