秋津野未来への挑戦−里山からのまなざし

●里山からのまなざし
 雑木林の木の実を表現する女性たち2003三年12月、クリスマスを前に送られてきたプレゼントに、何軒もの家庭で歓声があがった。ペイントで銀色に化粧を施された松ぼっくり、星の形をしたビーズに赤いリボン、それらが杉の木を黒く焼いた2.5センチ角のキューブ型の台上できらめいていた。名前は「松ぼっくりツリー」完成までに2ヶ月近くの期間を要した自信作だ。“アートディレクター”は、秋津野木の実会の女性たち。
 作品の主役である松ぼっくりは、高尾山や竜神山をはじめ地元と周辺にある里山の松林などで拾ってきた。杉の台は、自分たちでバーナーを使って焼いた。里山で繰り広げられる自然の営みを知らせたい、女性たちのメッセージが作品になった。

 里山は、上秋津を特色づける風景のひとつである。里山は集落の近くにある丘陵で、早くから人の手が入り、さまざまに利用されてきた人工林だ。この地域でも、ひとびとの営みは里山とともにあった。次に紹介するのは、地元で聞いた里山の民俗である。
 里山にある雑木は、燃料となった。冬、里山に立ち枯れの松を取りに行くのは、こどもたちの仕事だった。  松は火力が強く、炊事や風呂を焚く焚きつけの貴重な燃料だったのである。また、山に生えている小シダを取ってきて、ミカン畑に敷くのは、この地域の農家の冬の農作業のひとつだった。
 シダを敷くと雑草が生えず、また乾燥を防ぎ、枯れればそのまま肥料になった。「狸にだまされた話は、そうした薪取りのときに生まれたんでしょう」、と60歳代の農家のひとは笑う。



 里山には、竹林があった。タケノコは、各家庭でよくゆがいてワカメや高野豆腐などと一緒に煮て食べた。食用になるタケノコは「すごもり」と呼んだ。竹の皮は拾ってきて売った、精肉店で肉を包んだりするのに用いられたからだ。親はこどもたちのために、竹の皮草履を編んで履かせた。この地域には、「各集落に一軒くらいは竹の加工屋がいて、ミカン籠やぼっつり、もどりなどを作っていた」。ぼっつりは農作物などを入れる籠、もどりは「もんどり」とも言い、主にウナギとりに用いた漁具である。



 里山は、まさに資源の宝庫だった。それだけではない、雑木林は鳥や小動物のすみかとなって、数多くの命を育み、水をたくわえる。ところが、高度経済成長の時代を迎え、燃料の主役がガスに代わるのにともない、ひとは身近かにある里山の存在と機能を、急速に忘れていった。その結果、至るところに、放置され荒れた里山が出現することになる。近年、その里山の多様な役割を再認識し、環境保全の視点からももう一度見直そうという動きが広がっている。



 秋津野木の実会は、2003年春に発足した。九州の中山間地域にある地域づくりの先進地を視察した折、ドングリを使った民芸品を知ったのがきっかけだった。「これならば自分たちにも作れるかも知れない。ドングリをアレンジすると、どんなものができるかやってみよう」。代表の木村美子さん(1956年生)ら「日頃から仲のよい」女性たちが集まり、会を作った。いずれも“子育て真っ最中世代”の三五歳から四五歳の若いお母さんたち、ほとんどが農家の主婦だ。
 ふくろうや木の実をイメージしたストラップを作った。古布や端切れを使い、なかに綿などを詰めて縫い上げる。メンバーのなかに自然志向の女性がいた。「地元のもの、自然のものも使いたい」、高尾山のヒノキの実や雑木林の木の実も材料になった。製品は秋津野直売所のきてらセット購入者へのプレゼント品に採用された、ペインティングされた松ぼっくりもそうした作品のひとつだったのである。

 「1800作りました」、と木村さんが教えてくれた。つまり女性たちは、それだけの松ぼっくりを拾い、あるいは集めたことになる。希望価格1個300円で直売所の店頭にも並んだツリーは買い物客に人気だった。
 木の実会の女性たちは、定期的に木村さんの家に集まり、作品を作っている。
 できた作品は、直売所で販売している。
 悩みは時間がなかなか作れないことだ。
 「自然を大事にしたい。作品をとおして秋津野の自然について語れたらいい」。木村さんたち秋津野木の実会の女性たちのまなざしの先に、里山がある。