秋津野未来への挑戦−だれもが、地域の夢を語れる場として上秋津を考える会

 毎月8日の夜に、上秋津農村環境改善センターで開かれる会合がある。上秋津を考える会の例会だ。「夢を語るところから始めています」、農業泉尚志さん(一九六三年生)は会の様子をこう話す。
考える会は、「地域に在住しているか勤務しているひとで、地域について前向きに考えるひとならばだれでも入れる」、泉さんは4代目会長である。

 1980年代後半の上秋津で、30代後半の農業後継者や会社経営者らの間から、「山村が崩れ、続いて中山間地域も崩れ、このままだと村が衰退していくのではないか。行政は農村にそれほど金を入れてくれない」という声があがった。「地域のこと、将来のことを考えよう」、上秋津を考える会は、1989年(平成元年)初代会長になる大平真也さん(1945年生)ら約20人によって結成された。
 「有志が肩ひじ張らずに勉強したり話し合う場」として出発した考える会。しかし、地域住民の間には、青年たちのつくった新しい会にたいし、冷ややかな反応が目立った。「一部の人間の遊び。考える会』を考える会がほしい」といった陰口がささやかれ、もちろん「公の場での発言権もない」状態だった。

 そうしたなか、1992年(平成4年)、高尾山が和歌山県のスカイパーク整備団体に指定される。
 青年たちが、高尾山の活用について考えていたさ中のことであった。ログハウスの整備は考える会の記念すべき「最初の事業」、人文字ライトアップはそのときはじまった。「プロジェクトを考え、作り上げることが楽しかった」のである。辺谷農林公園の整備事業では、植樹のほか遊歩道や休憩所の設置に協力した。考える会が取り組んだ奇絶峡の整備は、現在では周辺地区の整備委員会に引き継がれている。


秋津野塾が誕生するのは、考える会が活動を開始して5年後のことである。塾は地域課題に総合的に取り組んでいくために、地域のすべての組織の参画のもとに運営される。
 事業は全体会で決定し、各組織が実行する仕組みだ。そうした事業を企画実行する中心的な役割を担っているのが、考える会なのである。花まつり、高尾山のライトアップ、登山マラソン、秋津野塾の名のもとに展開するさまざまな事業が、そうである。考える会のプロデュースによるイベント事業は、上秋津を活性化し、活発化させてきた。それが、上秋津の「行政に頼らない地域づくりの基盤になっている」といわれる。

 上秋津の地域づくりの中核となってきた考える会は、発足から10年あまりを経ていま、過渡期にある。発足当初高尾山のライトアップ作業50人前後あった会員は現在25人、約半分になった。青年を中心とした会の構成年齢は、33歳から62歳と、青年だけの会ではなくなっている。年間の数多くのイベントに「こなしていくのが大変。疲れてきた」という声が聞かれる。他方、望ましい動きもある。あらたに移り住んできた住民のあいだに地域問題に積極的にかかわるひとのすがたがみられ、会員は“新旧住民”がほぼ半分ずつになっている。
 会長の泉さんは、考える会の役割は終わらないという。「秋津野塾は各団体の代表で構成されており、一年、二年の任期のひとが多い。考える会は半恒久的だ。しかも、考える会でないと、できないことは多い。ほかの団体の多くは性格が規定され、制約がある。考える会は、職業も男女の区別もなく地域も問わない、やりたいひとはだれでも参加でき、話し合える団体だ」。
 泉さんが、「会の起爆剤」として期待していることがある。女性の入会である。「こどもが学校を卒業すると、つきあいの場が少なくなる」傾向がある女性たちに、交流の場を提供し地域の活動に加わってもらいたいという考えからだ。考える会は、結果的にこれまで女性に門戸を開いてこなかった、男性ばかりだったのである。
「自分たちがおもしろくなければ、楽しいことはできない。楽しいことを考えたい」。考える会は女性、新住民との連携をとおして、地域への夢を育もうとしている。